韓国ミュージカル☆ライフ

韓国ミュージカルを楽しみつくすブログ

韓国(創作)ミュージカル版「芋づる式観劇MAP」を作ってみたよ-作品ちょこっと解説つき

お題「芋づる式観劇MAP」

 岩波書店が企画した芋づる式読書MAP。読書好きのかたがたが様々なマップを発表されておりますが。当ブログ「韓国ミュージカルライフ」ではそれにあやかって芋づる式韓ミュ観劇MAPを作成しました。みんなで芋のつるをつないでまいりましょう。作ってみたMAPはこちら!

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  さて、そもそもの始まりはSparks inside of meという観劇ブログを書いておられるSatokoさん。読書MAPをアレンジし、戯曲を中心に芋づる式観劇MAPを作成されていたかたの試みを基に、韓国ミュージカルオンリーの、芋づる式韓ミュ観劇MAPを発表されました。もとはTwitterのつぶやきだったこのMAP、TL上では流れ去ってしまうということで、充実の作品データとともにブログ記事にまとめてくださっています。さらに、「マイお題」として「芋づる式観劇MAP」というタグも作成されておりますので、当ブログはこれに便乗してみることといたしました。

theatre-goer.hatenablog.comできるだけSatokoさんの芋と重ならない韓国創作ミュージカルを選ぶことを意識しつつMAPを作成したのですが。これでもまだまだMAPに入っていない創作ミュージカルが存在するあたり、ホントに韓国は創作ミュージカル大国だと実感。

私の芋MAPにある芋39作品のリストは以下の通り。簡単説明も付け加えていきたいと思います。たくさんありすぎかつ記憶が薄れていることもあり、かなりテキトーな説明が多いことをあらかじめおわびしておきます。あと、すっかり書いた気持ちになっていたのに、記事にできていない作品が多数あることにも気づかされました。がんばって書こう、来年は。※かけたら追記していくことにします!

39の芋たち(50音順)

  • アランガ
  • イソンドンクリーンセンター
  • ヴァンパイヤ・アーサー
  • 失われた顔1895
  • 海賊
  • 影をなくした男
  • 光化門恋歌
  • 神と共に あの世編
  • 神と共に この世編
  • 帰還
  • 君のための文字
  • ゴーン・トゥモロー
  • ゴレゴレ
  • 最終陳述
  • シデレウス
  • 新興武官学校
  • SMOKE
  • 西便制(ソピョンジェ)
  • 地下鉄一号線
  • 徳恵翁主
  • 蘭雪(ナンソル)
  • ニジンスキー
  • パガニーニ
  • バニシング
  • バンジージャンプする
  • 美人
  • 風月主
  • フランケンシュタイン
  • ブルーサイゴン
  • HOPE
  • マリー・キュリー
  • 明成皇后
  • 女神さまが見ている
  • もしかしてハッピーエンド
  • 尹東柱 月を射る
  • 6時退勤
  • 英雄
  • リトルジャック
  • 黎明の瞳

アランガ

脚本: キム・ガラム
作曲: イ・ハンミル、パク・イネ

 歴史書『三国史記』に記載された「都彌説話(도미설화)」をベースとした、らぶらぶドミ夫妻への蓋鹵(ケロ)王横恋慕物語。

pokos.hatenablog.com
イソンドンクリーンセンター

脚本:オ・セヒョク

作曲:キム・ヘソン

死者が見えるイソンドンが、死体・遺品整理会社に就職し、さまざまな死者と出会い事件を解決していく物語。

 
ヴァンパイヤ・アーサー

脚本:ソ・フィオン

作曲:キム・ドゥリ

ヴァンパイヤのアーサーが出会った少女との交流をきっかけに、自分が何者なのかに気づく物語。


失われた顔1895

脚本:チョン・ソンヒ

作曲:ミン・チャンホン

暗殺された朝鮮王朝最後の王妃、明成皇后の一生を描く。

 直接の記事ではないのですが、演出家のイ・ジナ先生について書いたものがあった・・。

pokos.hatenablog.com
海賊

脚本:イ・ヒジョン

作曲:パク・ジョンア

 海賊を夢見る少年が海賊船に乗り込んで、父が残した地図を手掛かりに宝の島を目指す物語。

pokos.hatenablog.com

影をなくした男

脚本:ジョンヨン

作曲:WOODY PAK

悪魔に騙され、金の湧き出る財布と自分の影を交換した男が、自分の影をもとめてさまよう物語。

pokos.hatenablog.com

 
光化門恋歌

脚本:コ・ソンウン

作曲:イ・ヨンフン

死の瞬間、人気音楽家の脳裏に浮かんだ大切な人とはだれだったのか?学生運動の時代から現在まで、韓国現代史を背景に描かれる夫婦愛。

pokos.hatenablog.com
神と共に あの世編

脚本:ジョンヨン

作曲:パク・ソンイル

人気ウエブトゥーン『神と共に』のミュージカル化作品。冴えないサラリーマンがやりて弁護士と地獄めぐり。

 すっかり記事を書いた気分だったのですが、書いていなかった模様。映画版の感想をはっておくことにします。

pokos.hatenablog.com 
神と共に この世編

脚本:ハン・アルム

作曲:ミン・チャンホン

人気ウエブトゥーン『神と共に』のミュージカル化作品。再開発で権力者たちに立ち退きを迫られた老人と孫を、家神たちが守る!

帰還

脚本:イ・ヒジョン

作曲:パク・ジョンア

朝鮮戦争の遺骨整理!

君のための文字

脚本:キム・ハンスル

作曲:キム・チヨン

大切な女性のためにタイプライターを発明したよ!

ゴーン・トゥモロー

脚本:イ・ジナ

作曲:チェ・ジョンユン

 金玉均の暗殺を企てる洪鐘宇が、オッキュン先生の魅力にメロメロになって、高宗に嫉妬されまくる話。あれ?違うか。

 

pokos.hatenablog.com

pokos.hatenablog.com

pokos.hatenablog.com
ゴレゴレ(馬車にのってわいわい)

脚本:チョン・ミナ

作曲:キム・シニ

久しぶりに会った同窓生たちが、バスキン(路上ライブ)しながらコンサート会場を目指す話。

 これも映画の記事しか書いてない・・びっくり、あんなに見たのに・・。

pokos.hatenablog.com

最終陳述

脚本:イ・ヒジョン

作曲:パク・ジョンア

異端審問を避けるために地動説を撤回したガリレオが、死後の世界で自らの真理を主張できるようになるまでの物語。

こ、これも作品自体の記事を書いてなかたよ。

pokos.hatenablog.com

シデレウス

脚本:ペク・スンウ

作曲:チェ・ハヌル

 ケプラーガリレオが楽しく科学トークしているうちに、地動説にたどり着いちゃったよ!あちゃー、と言う話。(なんかちがう)。

pokos.hatenablog.com

新興武官学校

脚本:イ・ヒジョン

作曲:パク・ジョンア

植民地期独立運動を志した若者たちの物語。

pokos.hatenablog.com
SMOKE

脚本: チュ・ジョンファ
作曲: ホ・スンヒョン

植民地期を生きた天才詩人李箱の内面世界を描く物語

pokos.hatenablog.com
西便制(ソピョンジェ)

脚本: チョ・グァンファ
作曲: ユン・イルサン, イ・ジャラム
原作:イ・チョンジュン『南道の人』

パンソリの芸を極める姉と新しい音楽を求めてソリを捨てた弟の芸術を通しての邂逅 

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地下鉄一号線

脚本:キム・ミンギ

作曲:チョン・ジェイル

韓国創作ミュージカルの金字塔!まだ9号線なんかもちろんなかった頃の地下鉄1号線を舞台にソウルの人々を描く群像劇。


徳恵翁主

脚本:ムン・ヘヨン

作曲:チャ・ギョンチャン

旧対島藩主に嫁いだ高宗の娘、徳恵の狂気への道を描く物語。


蘭雪(ナンソル)

脚本: オク・ギョンソン
作曲: ダミロ

李氏朝鮮時代の女性詩人蘭雪の苦悩にみちつつも鮮やか人生を、彼女の弟許筠と師匠李達が語る。


ニジンスキー

脚本:キム・ジョンミン

作曲:ソン・チャンギョン

ロシアの天才バレエダンサー、ニジンスキーの栄光と挫折を描く。


パガニーニ

脚本: キム・ウネ, キム・ソンミ
作曲: キム・ウニョン、イム・セヨン

悪魔のバイオリニストと呼ばれたパガニーニの虚実が暴かれる!

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バニシング

脚本:ハン・ジェウン

作曲:チュ・ミナ

京城医大でヴァンパイヤの因子がみつかったってよ!

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バンジージャンプする

脚本:イ・ムンオン

作曲:Will Aronson

映画『バンジージャンプする』のミュージカル化作品。初恋の女性の生まれ変わりは男性だった!

 

美人

脚本:イ・フィジュン

作曲:シン・ジュンヒョン

日本植民地期の京城(ソウル)を舞台に、弁士として生きて来た主人公が独立運動に目覚めるまでを描く。

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風月主

脚本:チョン・ミナ

作曲:パク・ギボン

新羅時代、女王に愛された男妓生が愛したのはいつも一緒に生きて来た少年だったーー。


フランケンシュタイン

脚本:ワン・ヨンボム

作曲:イ・ソンジュン

言わずと知れたジェットコースター大河劇。3時間もあるのに瞬きする間に終わる、狂気の科学者ビクターフランケンシュタインと、友/怪物の物語。

 フランケンの記事は腐るほどあるとおもってたんですが、意外に韓国版フランケンについて書いてないことが判明。あの情熱はどこへ昇華されたのだろう。

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ブルーサイゴン

脚本:キム・ジョンスク

作曲:クォン・ホソン

韓国版「ミス・サイゴン」。ベトナム戦争に出兵した韓国兵とベトナム女性の恋愛と悲劇。

HOPE-読まれない本と読まれない人生

脚本:カンナム

作曲:キム・ヒョウン

 カフカの遺稿の所有権をめぐりイスラエル図書館とその保管者の間で実際に起こった係争事件をヒントに書かれた本作品。過酷な時代の経験を経ていかに自分の人生に意味を見出すかを問う、老女ヒロインとイケメン(?)原稿擬人化たんが繰り広げる再生の物語。て自分で書いてたのでそのまま貼っておきます。

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マリー・キュリー

脚本:チョン・セウン

作曲:チェ・ジョンウン

ノーベル賞を二度受賞したマリー・キュリーに問われた、科学者としての倫理とは?

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明成皇后

脚本:キム・グァンリム

作曲:キム・ヒガプ

明成皇后の一代記。


女神さまが見ている

脚本: ハン・ジョンソク
作曲: イ・ソニョン

朝鮮戦争時、捕虜輸送中に無人島に漂着してしまった北と南の兵士たちの友情を描く。


もしかしてハッピーエンド

脚本: ウィル・アロンソン パク・チョニュ
作曲: ウィル・アロンソ

使い捨てられたヘルパーロボットたちの交流を描く物語。


尹東柱 月を射る

脚本:ハン・アルム

作曲:オ・サンジュン

夭逝した詩人、ユン・ドンジュの物語。


6時退勤

脚本:ムン・ジョンヨン、パク・ジョンウ

MEDICI EFFECT

6時に退勤を夢見る社員たちが、会社の企画で素人バンドを結成し、人生のきらめきに目覚める物語。


英雄

脚本:ハン・アルム

作曲:オ・サンジュン

運命に身を投じた安重根の苦悩を描く物語。


リトルジャック

脚本:オク・ギョンソン

作曲:ダミロ

成功したバンドボーカルが、自分を育ててくれたライブハウスで切ない初恋の思い出を語る。

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黎明の瞳

脚本:チ・イヌ

作曲:JACO

第二次世界大戦から朝鮮戦争後まで激動の時代を生きた女と女を愛した二人の男の物語。大ヒットドラマのミュージカル化作品。

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みなさんのMAPもぜひぜひ教えてください!

韓国ミュージカル『マリー・キュリー(마리 퀴리)』見て来たよ(2018-9年、韓国、初演)―科学倫理・ジェンダー・祖国愛、ドラマティックてんこ盛りをどう料理するか

 韓国の創作ミュージカル『マリー・キュリー』の再演が決定されました!タイトルの通り、日本では「キュリー夫人」の名称で呼ばれることが多いマリー・キュリーマリア・スクウォドフスカ=キュリー)を主人公とするミュージカル。ノーベル賞を2度受賞した女性科学者である彼女の、科学者としての倫理を主題とする骨太ミュージカルでございます。演出家変更で上演される、2020年2月からの再演を目前にして、初演時の(書き忘れていた)感想を、今更ながら備忘録として書いておくことといたします。
 初演(試演)は、2018年12月2日から2019年1月6日まで大学路芸術劇場大劇場にて上演されました。韓国コンテンツ振興院主催の2017年ストーリー作家デビュープログラムで評価され、文化芸術委員会主催の2018年公演芸術創作産室今年の新作ミュージカル部門選定作という期待を背負っての上演。韓国演劇界の傾向として女性主人公の創作ミュージカルが少ないことが問題視されている中、韓国でのフェミニズム・リブートとも連動しながら現れたのが、『マリー・キュリー』だったのです。ミュージカル『レッドブック』に続く作品になるのか?期待は大きく、主役を張る俳優さんたちの気合も十分!見て来たキャストはこちら!

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マリー・キュリー:キム・ソヒャン
ピエール・キュリー:パク・ヨンス
ルーベン:チョ・プンレ
アンヌ:キム・ヒオラ
ジョシュ:キム。アヨン
ポール:チャン・ミンス
アメリエ:イ・アルムソル

 見た後書きとどめた限りのあらすじ

 マリー・キュリー と夫のピエール・キュリーは物質Xを取り除いてなお放射性物質を放つ元素の存在を仮定して研究を続けています。研究過程において、マリーは女性であることを理由に差別されていました。元素を確定しない限り、アカデミーはそれを認めないというのです。マリーは何年もかけて実験を続けるのですが、ピッチブレンド瀝青ウラン鉱、彼らはここからラジウム抽出を試みていました)を準備してくれている支援者のルーベンからも成果を急かされています。もう発見できないのかーー絶望に見舞われそうになった時、ついにキュリー夫妻はラジウム抽出に成功したのでした。二人は特許をとらず、広くラジウムが利用される道を開きもしました。
 功績をみとめられ受賞がきまったノーベル賞。しかしその受賞式では、ピエールの名前だけが呼ばれ、マリーは「その夫人」と添えられたにすぎませんでした。ピエールはこの発見の基礎には彼女の博士論文があることを主張するのですが、世間はそれを聞き入れません。彼女にはあくまで補助者、内助の功という評価しか与えないのです。マリーは、私たちはひとつのチームだからと自分を納得させつつも、自分の名前が呼ばれないことに苛立ち、また、家庭的なゴシップばかりを求めて記者に追いまわされることにウンザリしていました。ピエールは、そんなマリーに『ジャングルブック』を勧め、恐れを知るからこそ強くなれる、という言葉を示すのでした。しかしその時のマリーには余裕がなく、彼の言葉を深く受け止めることはありませんでした(ここ、フラグですよ!)
 新しい研究を始めなければ、と焦っていたマリー。そんな彼女にピエールは、自分の体についた傷がラジウムで回復したという事例を紹介するのでした。癌などの治療に使えるのではーー。ラジウムが病気治療に使えるかもしれない、この仮説をもとに研究を始めることになり、マリーは有頂天になります。
 他方ラジウムは、夜に真っ暗になるパリの街を照らすものとして、時計の塗料に使われるなど、活用が進んでいきました。時計を作っているアンダーク工場の従業員たちは、ラジウムの危険性が知られていなかったため、塗料のついた筆をなめて作業をしていました。彼らは専門的な技術職として扱われ、比較的高給取りでした。また、女性でも働ける職としても人気があり、職場は誇りをもって働く人たちの活気に満ちていました。モンマルトルのキャバレーに行き、芸術家たちと交流することを夢見る少年や、女性技術職として専門性を身につけられることを誇りに思っている女性、賃金で妹を大学に行かせたいと願っている女性などが工員として描かれていきます。ある日時計工場に、妹を大学に行かせたいといっていた行員アメリエの妹、アンヌがポーランドからやってきます。アンヌは頭が良いのですが、大学に行くお金がありません。姉妹はお金を貯めるため共に工場で働くことになりました。
 その頃、マリーはラジウムの治療目的使用のための動物実験を繰り返したのちおこなう、臨床実験の場を探していました。しかしなかか支援者は見つかりません。ついにフランシス(だっけか)病院から支援が受けられることに。喜ぶマリーとピエール。そんな彼らの下に、一通の手紙が送られてきます。マリーと同郷であるポーランド人、アンヌからのものでした。その手紙には、ラジウム工場の工員たちの歯は腐り、口がただれる症状が出ていることが綴られていました。マリーは、直ちにラジウムの危険性をマウスで検証することにしました。ラジウムが人体に悪影響を及ぼすなど、信じられなかった、信じたくなかったからです。マウスでの実験は途中まで順調でした。しかし、実験を継続するうちに、やがてマウスは死んでしまうことがわかりました。動揺するマリー。しかしこれは、第一回目の試験に過ぎないと自分に言い聞かせるのですが、この試験によって、ラジウムに危険性があることがピエールとルーベンにも知られてしまいます。 ピエールは直ちに世間にこのことを公表すべきだと主張しますが、マリーはそれを止めようとします。これが知られてしまったら、治療のための臨床実験までもが頓挫してしまうと思ったからです。一度臨床実験が白紙に戻ってしまうと、もう二度と機会がやってこないかもしれない。ルーベンも、ラジウムの危険性を公表するべきではないと主張します。そして、工員たちは梅毒で死んだのだ、娼婦が同じ症状で死亡したのだから、と彼らを見捨てます。その言葉に怒る死者の亡霊たちは、梅毒死とされたその悔しさ、未来を夢見たかつての自分を憐れむのでした(この各キャラパートの曲は涙モノです)。
 アンヌは仲間の死を前に、会社を訴える裁判を起こしました。そして話を聞き入れないマリーをあきらめ、ピエールに証言を依頼するのでした。ピエールは引き留めるマリーを振り払い、口論の末家を出ます。そして裁判所にいく途中、馬車事故にあって死んでしまうのでした。ピエールの証言を受けられなかったアンヌは、裁判に敗訴します。 そしてマリーの家に押しかけ、危険性を公開しないマリーを責めるのでした。しかしマリーは、ここで未来が閉ざされてしまうことを恐れているとその心情を吐露します。科学者としての責任と、科学が切り開く輝かしい未来の可能性にワクワクする自分の葛藤。マリーは迷います。
 そこに、ピエールの死の知らせがやってきます。絶望の淵に突き落とされるマリー。口論が最後の言葉になってしまったことを後悔し、これ以上何を実験すればいいのか、科学者としてどう生きていけばいいのかわからなくなります。自分は何をすべきなのか。絶望の中でマリーは考えます。そして、結論したのでした。――彼女はルーベンにラジウムの危険性を公表するように告げます。ルーベンは、単に金のためではなくラジウムが切り開く未来を信じているからこそ、その危険性を公表したくないと主張します。しかしマリーは、未来を閉ざさない方法でそれを公表する方法を選ぶことを彼に誓い、公表を進めるのでした。
 そして――ラジウムには、骨髄に影響して細胞を破壊する危険性があるとともに、癌治療に用いることができるという可能性を指摘したうえで、一旦は、臨床実験を中止することを宣言します。マリーは「恐れを知るからこそ強くなれる」というピエールの言葉を思い返します。実験室に戻ったマリーは、子どものころから科学に対していただいていた未知の世界へ踏み込む楽しさや輝きを再び感じるとともに、自らがすべきことに取り組みはじめるのです。
 実験の始まり。いつものように、実験日誌にマリーは書きます。放射能の使用における単位を規定し、活用のための基準値を定める実験を開始する。その単位の名前は「キュリー」。

「私」を主張することから、「使命を帯びた人間」へ

 本作『マリー・キュリー』は当初、女性主人公ですよ!女性がタイトルロールですよ!という記事がたくさん出たこともあって、韓国フェミニズムのムーブメントにのったエンパワーメントモノなのかな?と思っていたのですが。結構違っていた。観劇後は「女性を描く方法として(なんだかよくわからんが)もう一歩先にいくことにしたんだ」という感想を抱きました。あらためてなぜそんな風に思ったのだろう、と言う点を、おぼろげな記憶をもとに書き連ねてみたい(もう、ほぼ忘れてる・・)。

 この作品には、物語の最初の部分で、マリーは自分がキュリー夫人としか呼ばれないことにいらだち、「私はマリーだ!」と叫ぶ曲があります。これを見ると、一瞬マリーの女性としての葛藤をこれから描いていくのかな?と思ってしまう。しかしこの葛藤はあまり深められず、最後、彼女は新しい単位を創ることを決意しそれを「キュリー」と名付けます。あれ、なんか違うとこに着地した?みたいな感じがなくもない。

 しかし、マリーとキュリー、彼女の名前を構成するこの二つが最初と最後に出てくる点がミソだったのかな、と思う節もある。つまり、彼女が主張するものが、マリーという「私個人」を表す名前へのこだわりから、ピエールと共に成し遂げたチーム「キュリー」のメンバーとしての名称へと変化するのは、マリーにとっての人生の課題が、女性というジェンダーに由来する葛藤を乗り越えるかどうかではなく、自分が何を成し遂げたいのか、成し遂げられるのかという使命(マリーの場合は科学者としての能力と責任)に変化した、ということを示しているからでは、と思ったのでした。つまり、彼女が「キュリー」という単位を創ろうとした理由は、自らの業績を世間に認めさせるためではなく、個人を超えたもの(科学の神秘や人類の発展ぐらいの巨大レベルの理想)の一部として自分がなすべきことを理解し、それこそが自分がずっと大切にしてきた個人的な科学に対する希望や喜びと結びつくものだったのだと「発見」するからなのです。

 だからこそ、例えば主人公であるアンナが「私」を語ろうと苦闘するようなミュージカル『レッドブック』のような作品、「女性としての私」をいかに語るかフォーカスの「次」に来るものに見えたのかもしれません。語る声を手に入れることのできた「私」が、その次に何を語るべきかを問い、それに答えようとしたのが『マリー・キュリー』なのかなと思ったのでした。

盛りだくさんすぎるので整理は必要か

 さて、作品が目指した一歩先感は他にも随所にみられました。ガリレオ・ガリレイケプラーの交流を描く創作ミュージカル『シデレウス』などで描かれた、「科学する心の純粋さ」みたいなキラキラ表現を超えて、科学がもたらす負の部分もまた、キラキラによって発生するのだ、という現実を描こうとした点もおもしろかったです。しかしだからこそなのか、悪役ポジションのルーベンが、キュリー夫妻同様、科学の切り開く未来を信じているキャラとして描かれており、悪役らしくない悪役となってしまいました。これが初演当時「どっちやねんおまえ!わかりにくいわ!」みたいな感想をうんだりもしたようです。たぶん途中までシンプルな悪役風に描きすぎなんだと思うのですが・・。

 またアンヌは、マリー同様ポーランド出身の苦学生という設定。物語の中でかなり重要な役割を果たします。同胞であり、自分をロール・モデルとするアンヌからむけられるまなざしが、マリーに葛藤をもたらすのですから。とはいえ、今回の展開では、アンヌが一方的な糾弾者のようになってしまいがちだったところが、もったいなくもありました。実際のマリー・キュリーは、初めに発見した元素に祖国の名をいれてポロニウムと名付けたくらい祖国愛が強かった人だそう。なのでマリーとアンヌの関係を、同胞愛やらなんやらもろもろな関係を踏まえてガッツリ書いてもらえたりすると、「マリー」から「キュリー」へと一皮むける部分がわかりやすくなるのではなかろうか!と勝手に推測しておるのですが。さて、どうなりますか。再演ではアンヌとマリーの関係をクローズアップしつつ再構成していくみたいなので、かなり期待しています。

 ともあれ、のこされた課題はもろもろあるわけですが、(泣きツボは押さえつつ)いろいろ新しいことやってみよう!という精神と可能性にあふれた脚本だなあと思ったので、再演には期待を寄せております。伝記マニアとしては、楽しみなのでありました。個人的には、リーゼ・マイトナーとかでもミュージカル作ってほしいけど。

 

マリー・キュリー』音楽はどんな感じ?と思われた方に。マリーが、未知の領域の知へ駆り立てられる想いにきづき、自らの使命を自覚し歌う感動のラスト曲を。ミュージカル『マリー・キュリー』「予測できない、知られてもいないRep」です!

www.youtube.com

演劇『R&J』(2019年、再演)見て来たよ―「演じること」がもたらすカタルシスを共に経験する舞台(その2)

 演劇『R&J』は2019年6月28日~9月29日まで、東国大学イヘラン芸術劇場にて上演中。「舞台席」なるシートがありますが、まさに舞台上に座り(というか、舞台に半分めり込む?席も)目の前30センチに俳優さんの息遣いを感じることのできる極上体験さえも可能ですので、複数回の観劇をおすすめしたい作品です。ではでは観劇記録の続きとまいりましょう。(その1はこちら)。

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 さて、その1でも書きましたが。この作品は、抑圧された学生生活を送る学生たちが、シェイクスピアの戯曲を自ら演じることによって、自分たちの中にあった情熱や愛、怒りなどの感情を掘り起こし、それを表現することを覚えるというストーリーと、彼らが演じる『ロミオ&ジュリエット』が交錯しつつ進んでいきます。当初、演じることに戸惑いや恥ずかしさを持っていた学生たちが、途中からだんだん本気になっていく様子が面白い。まずは学生1と2が、やがてそれをやや外側から眺めていた学生3と4が、自分の「感情をのせて演技してもいい」と気づくことで、彼らの劇中劇が本格的な劇となって舞台上に展開していきます。2幕からは観客の目の前には「学生たちが演じている『ロミオ&ジュリエット』」ではなく『ロミオ&ジュリエット』の舞台が展開していくのですがーー。

役柄を演じるからこそ露呈する演技者本人の姿

 学生1、2、3、4の全員が『ロミオ&ジュリエット』モードに突入してからは、複数人の人物を演じ分ける俳優さんたちそれぞれの役作りが一つの見どころとなります。この部分の表現が無限の広がりをもっていて、チケットの買い増しが無限に繰り返される地獄(タスケテー)。加えて、彼らが本気で演じ始めるからこそおこる現象が描かれます。「学生1、2、3、4」がもともと抱えているトラウマや抑圧されていた何かが露呈してくる様子、これが「シーンとして挿入」されていくのですが、まさに脚本的な妙と言えましょう。自らの感情を吐露するという行為を「演技」として「表現できる」ことに気づきはじめた学生達は、抑圧されていたもの、忘れ去ろうとしていたものを自らの中に次々と到来させていきます。特に印象に残るのはジュリエットがロミオ追放の知らせを受け、両親からパリスとの結婚を迫られるシーン。ジュリエット役の学生2は、父権的な抑圧への恐怖や絶望、そこからの逃避を願う感情、おそらく学生2と言うキャラクターの中にあったのであろう、自分の意見が全く聞き入れられないような何らかの経験を思い出し、感情を爆発させます。それに対し、父権的な力を行使する役割を担った学生3と4は、自らの中にあった暴力性を暴走させてしまい、学生2を痛めつけてしまいます。途中、自らの暴走に気づいた学生3と4はふと正気に戻り、憑依するかのように役に没頭することで発見してしまった自分自身の闇におののきます。学生2としての自己をジュリエットに託して演じ続ける友人の呼びかけに、「役柄」として答えることができなくなる学生3・4。芝居は中断するのか――。そんな空気の中、学生1が台詞を引き継ぎ発声することによって、学生3と4は、自らの感情を整理し、役柄と自分の間に一定の距離を置きつつ没頭することに自覚的になって、再び芝居へと復帰します。そして学生達は、『ロミオ&ジュリエット』を演じ切るのですが。

「演じること」の忘我から日常へ

 ジュリエットがロミオの死を知り自ら命を絶つシーンまでを演じ切った学生たちは、日常が戻る「足音」をききます。「夢の時間」は終わりを告げたのです。学生2・3・4は急いで熱演の中脱ぎ捨てた制服を整え、自分を押し殺すような日常へと戻ります。なかなか現実に戻ってこれない学生1は、皆を押しとどめようとするのですが、それはかないません。そんな彼に、学生2は『真夏の世の夢』の妖精パックが幕引きをした台詞を送るのでした。学生1はあきらめて再び制服を身に着け、日常に一度は復帰しようとします。あれは一夜の夢だったのだ。妖精パックが言うようにたわいもない夢なのだと自分に言い聞かせます。が、同時に、頭の中にあのシェイクスピアの言葉、皆が思いを込めて発した台詞が次々によみがえります。そしてーー学生1は、突然思い直したように上着を脱ぎ棄て、叫ぶのでした「ゆうべ、夢を見た」と。ーーで、幕。

 さて、演劇『R&J』では物語が幕を閉じた後、カーテンコールの終わりに、再び4人の俳優さんたちが制服を脱ぎ捨て、ネクタイを取り払いそれらを放り投げて「ふぅーっ!」と声を上げる瞬間で暗転する、というラストが用意されています。このシーンは、「『ロミオ&ジュリエット』を演じている「学生たちの『演技』の物語」」を演じていた俳優さんたちが、「自分に戻る(キ・セジュンに、ホン・スンアンに・・と言う風に)」瞬間のようにも、あるいは「学生」たちが再び「夢をみる」ことを選んだようにも見えます。この曖昧なシーン、ただ一つ間違いがないと思えるのは、そこにあふれる「芝居をやりきったぜ(かつ)もっと芝居やろうぜ!」という、彼らの無限の演劇に対する愛ではないでしょうか。あのシーンだけでご飯10杯いける・・という気分にさせられます。

演技は演者に何をもたらすのか?を表現する

 さて、私が演劇『R&J』が面白いなー好きだなーともだえ叫びたくなる一つの要因は、この作品が、役柄を演じることで、俳優さんたちは日々こんな経験をしてるのかもなぁ、と思わせる構成だからかもしれません。俳優さんたちは自らの「演技体験」を客観化して、観客にも「僕らこんな風に演技するっていう経験をしてるんです」と示してくれているような。だからこそ観客は、彼らと共に舞台を飛び回る「学生5」になれるような気がするのです・・。ええ、妄想なんですが。

 たとえば、ジュリエットに過剰に暴力を振るい、学生3・4がふとわれに返ってしまうシーン。ここで示されるのは、芝居をすることは単純な忘我ではないがそれに限りなく近いのだ、という感覚ではないでしょうか。そして、その境界的な領域では、無意識化された俳優本人の経験や思考がさらけ出されてしまうことがあるが、俳優たちはそれを暴走させるのではなく、再度物語中の「役柄」に回収できてこそ演技として成り立つのだ。そんな風に演技論チック(しらんけど)なうんちくを読み込みそうになるのです。俳優さんたちの表情、ふと劇中の「演技」から離れる瞬間と再度没入する部分。この変化には、本当にゾクゾクさせられます。と同時に、演じることを通じてつかめる、「私は何者なのか」という感覚とその満足感が「演技する」ことの喜びなんだよ、と言っている気もする。「学生」という社会的な役割のみで分類されている登場人物たちは、抑圧を受けてはいても、それに真っ向から挑むような、ある一定の形をとった「ほんとうの私」をもともと持っていたわけではないように思います。むしろ彼らは、芝居の中で『ロミオ&ジュリエット』の「役柄」を演じていくことによって、何に抑圧され、恐れているのか、そんな自分とは何者なのかを発見するのはないでしょうか。またこの「発見」は、演技によって何かの結末を見たと思えるかどうかにも大きく左右されている・・そんな含みがこの物語では示されているようにも思えます(これは次にもうちょっと考えて見たいと思います)。

「学生」たちが自分の言葉を一切話さないこの演劇は、『ロミオ&ジュリエット』をはじめとしたシェイクスピアの言葉、つまり「他人の言葉」だけを語っているにもかかわらず、より深く「私」を表現する、という演劇の本質(いや、しらんけど)を観客に体感させ納得させる、いや納得させなければならない、俳優さんの演技力ガチ勝負な作品だ!と感動・感激したのでございました。