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韓国ミュージカル『マリー・キュリー(마리 퀴리)』見て来たよ(2018-9年、韓国、初演)―科学倫理・ジェンダー・祖国愛、ドラマティックてんこ盛りをどう料理するか

 韓国の創作ミュージカル『マリー・キュリー』の再演が決定されました!タイトルの通り、日本では「キュリー夫人」の名称で呼ばれることが多いマリー・キュリーマリア・スクウォドフスカ=キュリー)を主人公とするミュージカル。ノーベル賞を2度受賞した女性科学者である彼女の、科学者としての倫理を主題とする骨太ミュージカルでございます。演出家変更で上演される、2020年2月からの再演を目前にして、初演時の(書き忘れていた)感想を、今更ながら備忘録として書いておくことといたします。
 初演(試演)は、2018年12月2日から2019年1月6日まで大学路芸術劇場大劇場にて上演されました。韓国コンテンツ振興院主催の2017年ストーリー作家デビュープログラムで評価され、文化芸術委員会主催の2018年公演芸術創作産室今年の新作ミュージカル部門選定作という期待を背負っての上演。韓国演劇界の傾向として女性主人公の創作ミュージカルが少ないことが問題視されている中、韓国でのフェミニズム・リブートとも連動しながら現れたのが、『マリー・キュリー』だったのです。ミュージカル『レッドブック』に続く作品になるのか?期待は大きく、主役を張る俳優さんたちの気合も十分!見て来たキャストはこちら!

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マリー・キュリー:キム・ソヒャン
ピエール・キュリー:パク・ヨンス
ルーベン:チョ・プンレ
アンヌ:キム・ヒオラ
ジョシュ:キム。アヨン
ポール:チャン・ミンス
アメリエ:イ・アルムソル

 見た後書きとどめた限りのあらすじ

 マリー・キュリー と夫のピエール・キュリーは物質Xを取り除いてなお放射性物質を放つ元素の存在を仮定して研究を続けています。研究過程において、マリーは女性であることを理由に差別されていました。元素を確定しない限り、アカデミーはそれを認めないというのです。マリーは何年もかけて実験を続けるのですが、ピッチブレンド瀝青ウラン鉱、彼らはここからラジウム抽出を試みていました)を準備してくれている支援者のルーベンからも成果を急かされています。もう発見できないのかーー絶望に見舞われそうになった時、ついにキュリー夫妻はラジウム抽出に成功したのでした。二人は特許をとらず、広くラジウムが利用される道を開きもしました。
 功績をみとめられ受賞がきまったノーベル賞。しかしその受賞式では、ピエールの名前だけが呼ばれ、マリーは「その夫人」と添えられたにすぎませんでした。ピエールはこの発見の基礎には彼女の博士論文があることを主張するのですが、世間はそれを聞き入れません。彼女にはあくまで補助者、内助の功という評価しか与えないのです。マリーは、私たちはひとつのチームだからと自分を納得させつつも、自分の名前が呼ばれないことに苛立ち、また、家庭的なゴシップばかりを求めて記者に追いまわされることにウンザリしていました。ピエールは、そんなマリーに『ジャングルブック』を勧め、恐れを知るからこそ強くなれる、という言葉を示すのでした。しかしその時のマリーには余裕がなく、彼の言葉を深く受け止めることはありませんでした(ここ、フラグですよ!)
 新しい研究を始めなければ、と焦っていたマリー。そんな彼女にピエールは、自分の体についた傷がラジウムで回復したという事例を紹介するのでした。癌などの治療に使えるのではーー。ラジウムが病気治療に使えるかもしれない、この仮説をもとに研究を始めることになり、マリーは有頂天になります。
 他方ラジウムは、夜に真っ暗になるパリの街を照らすものとして、時計の塗料に使われるなど、活用が進んでいきました。時計を作っているアンダーク工場の従業員たちは、ラジウムの危険性が知られていなかったため、塗料のついた筆をなめて作業をしていました。彼らは専門的な技術職として扱われ、比較的高給取りでした。また、女性でも働ける職としても人気があり、職場は誇りをもって働く人たちの活気に満ちていました。モンマルトルのキャバレーに行き、芸術家たちと交流することを夢見る少年や、女性技術職として専門性を身につけられることを誇りに思っている女性、賃金で妹を大学に行かせたいと願っている女性などが工員として描かれていきます。ある日時計工場に、妹を大学に行かせたいといっていた行員アメリエの妹、アンヌがポーランドからやってきます。アンヌは頭が良いのですが、大学に行くお金がありません。姉妹はお金を貯めるため共に工場で働くことになりました。
 その頃、マリーはラジウムの治療目的使用のための動物実験を繰り返したのちおこなう、臨床実験の場を探していました。しかしなかか支援者は見つかりません。ついにフランシス(だっけか)病院から支援が受けられることに。喜ぶマリーとピエール。そんな彼らの下に、一通の手紙が送られてきます。マリーと同郷であるポーランド人、アンヌからのものでした。その手紙には、ラジウム工場の工員たちの歯は腐り、口がただれる症状が出ていることが綴られていました。マリーは、直ちにラジウムの危険性をマウスで検証することにしました。ラジウムが人体に悪影響を及ぼすなど、信じられなかった、信じたくなかったからです。マウスでの実験は途中まで順調でした。しかし、実験を継続するうちに、やがてマウスは死んでしまうことがわかりました。動揺するマリー。しかしこれは、第一回目の試験に過ぎないと自分に言い聞かせるのですが、この試験によって、ラジウムに危険性があることがピエールとルーベンにも知られてしまいます。 ピエールは直ちに世間にこのことを公表すべきだと主張しますが、マリーはそれを止めようとします。これが知られてしまったら、治療のための臨床実験までもが頓挫してしまうと思ったからです。一度臨床実験が白紙に戻ってしまうと、もう二度と機会がやってこないかもしれない。ルーベンも、ラジウムの危険性を公表するべきではないと主張します。そして、工員たちは梅毒で死んだのだ、娼婦が同じ症状で死亡したのだから、と彼らを見捨てます。その言葉に怒る死者の亡霊たちは、梅毒死とされたその悔しさ、未来を夢見たかつての自分を憐れむのでした(この各キャラパートの曲は涙モノです)。
 アンヌは仲間の死を前に、会社を訴える裁判を起こしました。そして話を聞き入れないマリーをあきらめ、ピエールに証言を依頼するのでした。ピエールは引き留めるマリーを振り払い、口論の末家を出ます。そして裁判所にいく途中、馬車事故にあって死んでしまうのでした。ピエールの証言を受けられなかったアンヌは、裁判に敗訴します。 そしてマリーの家に押しかけ、危険性を公開しないマリーを責めるのでした。しかしマリーは、ここで未来が閉ざされてしまうことを恐れているとその心情を吐露します。科学者としての責任と、科学が切り開く輝かしい未来の可能性にワクワクする自分の葛藤。マリーは迷います。
 そこに、ピエールの死の知らせがやってきます。絶望の淵に突き落とされるマリー。口論が最後の言葉になってしまったことを後悔し、これ以上何を実験すればいいのか、科学者としてどう生きていけばいいのかわからなくなります。自分は何をすべきなのか。絶望の中でマリーは考えます。そして、結論したのでした。――彼女はルーベンにラジウムの危険性を公表するように告げます。ルーベンは、単に金のためではなくラジウムが切り開く未来を信じているからこそ、その危険性を公表したくないと主張します。しかしマリーは、未来を閉ざさない方法でそれを公表する方法を選ぶことを彼に誓い、公表を進めるのでした。
 そして――ラジウムには、骨髄に影響して細胞を破壊する危険性があるとともに、癌治療に用いることができるという可能性を指摘したうえで、一旦は、臨床実験を中止することを宣言します。マリーは「恐れを知るからこそ強くなれる」というピエールの言葉を思い返します。実験室に戻ったマリーは、子どものころから科学に対していただいていた未知の世界へ踏み込む楽しさや輝きを再び感じるとともに、自らがすべきことに取り組みはじめるのです。
 実験の始まり。いつものように、実験日誌にマリーは書きます。放射能の使用における単位を規定し、活用のための基準値を定める実験を開始する。その単位の名前は「キュリー」。

「私」を主張することから、「使命を帯びた人間」へ

 本作『マリー・キュリー』は当初、女性主人公ですよ!女性がタイトルロールですよ!という記事がたくさん出たこともあって、韓国フェミニズムのムーブメントにのったエンパワーメントモノなのかな?と思っていたのですが。結構違っていた。観劇後は「女性を描く方法として(なんだかよくわからんが)もう一歩先にいくことにしたんだ」という感想を抱きました。あらためてなぜそんな風に思ったのだろう、と言う点を、おぼろげな記憶をもとに書き連ねてみたい(もう、ほぼ忘れてる・・)。

 この作品には、物語の最初の部分で、マリーは自分がキュリー夫人としか呼ばれないことにいらだち、「私はマリーだ!」と叫ぶ曲があります。これを見ると、一瞬マリーの女性としての葛藤をこれから描いていくのかな?と思ってしまう。しかしこの葛藤はあまり深められず、最後、彼女は新しい単位を創ることを決意しそれを「キュリー」と名付けます。あれ、なんか違うとこに着地した?みたいな感じがなくもない。

 しかし、マリーとキュリー、彼女の名前を構成するこの二つが最初と最後に出てくる点がミソだったのかな、と思う節もある。つまり、彼女が主張するものが、マリーという「私個人」を表す名前へのこだわりから、ピエールと共に成し遂げたチーム「キュリー」のメンバーとしての名称へと変化するのは、マリーにとっての人生の課題が、女性というジェンダーに由来する葛藤を乗り越えるかどうかではなく、自分が何を成し遂げたいのか、成し遂げられるのかという使命(マリーの場合は科学者としての能力と責任)に変化した、ということを示しているからでは、と思ったのでした。つまり、彼女が「キュリー」という単位を創ろうとした理由は、自らの業績を世間に認めさせるためではなく、個人を超えたもの(科学の神秘や人類の発展ぐらいの巨大レベルの理想)の一部として自分がなすべきことを理解し、それこそが自分がずっと大切にしてきた個人的な科学に対する希望や喜びと結びつくものだったのだと「発見」するからなのです。

 だからこそ、例えば主人公であるアンナが「私」を語ろうと苦闘するようなミュージカル『レッドブック』のような作品、「女性としての私」をいかに語るかフォーカスの「次」に来るものに見えたのかもしれません。語る声を手に入れることのできた「私」が、その次に何を語るべきかを問い、それに答えようとしたのが『マリー・キュリー』なのかなと思ったのでした。

盛りだくさんすぎるので整理は必要か

 さて、作品が目指した一歩先感は他にも随所にみられました。ガリレオ・ガリレイケプラーの交流を描く創作ミュージカル『シデレウス』などで描かれた、「科学する心の純粋さ」みたいなキラキラ表現を超えて、科学がもたらす負の部分もまた、キラキラによって発生するのだ、という現実を描こうとした点もおもしろかったです。しかしだからこそなのか、悪役ポジションのルーベンが、キュリー夫妻同様、科学の切り開く未来を信じているキャラとして描かれており、悪役らしくない悪役となってしまいました。これが初演当時「どっちやねんおまえ!わかりにくいわ!」みたいな感想をうんだりもしたようです。たぶん途中までシンプルな悪役風に描きすぎなんだと思うのですが・・。

 またアンヌは、マリー同様ポーランド出身の苦学生という設定。物語の中でかなり重要な役割を果たします。同胞であり、自分をロール・モデルとするアンヌからむけられるまなざしが、マリーに葛藤をもたらすのですから。とはいえ、今回の展開では、アンヌが一方的な糾弾者のようになってしまいがちだったところが、もったいなくもありました。実際のマリー・キュリーは、初めに発見した元素に祖国の名をいれてポロニウムと名付けたくらい祖国愛が強かった人だそう。なのでマリーとアンヌの関係を、同胞愛やらなんやらもろもろな関係を踏まえてガッツリ書いてもらえたりすると、「マリー」から「キュリー」へと一皮むける部分がわかりやすくなるのではなかろうか!と勝手に推測しておるのですが。さて、どうなりますか。再演ではアンヌとマリーの関係をクローズアップしつつ再構成していくみたいなので、かなり期待しています。

 ともあれ、のこされた課題はもろもろあるわけですが、(泣きツボは押さえつつ)いろいろ新しいことやってみよう!という精神と可能性にあふれた脚本だなあと思ったので、再演には期待を寄せております。伝記マニアとしては、楽しみなのでありました。個人的には、リーゼ・マイトナーとかでもミュージカル作ってほしいけど。

 

マリー・キュリー』音楽はどんな感じ?と思われた方に。マリーが、未知の領域の知へ駆り立てられる想いにきづき、自らの使命を自覚し歌う感動のラスト曲を。ミュージカル『マリー・キュリー』「予測できない、知られてもいないRep」です!

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