韓国ミュージカル☆ライフ

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ミュージカル『シデレウス』(2019年、初演、創作)見て来たよ―プラネタリウムで観劇したような

ミュージカル『シデレウス』が2019年4月17日~6月30日まで忠武アートセンター・ブラックにて上演中。ミュージカル『最終陳述』と同じく、ガリレオ・ガリレイが主人公でありながら、まったく趣の違う「理科心」くすぐる物語。半円形に囲む客席の向こうに、円と半円を重ねる星図版のような舞台セットが広がって、ガリレオケプラーが愛した風景を共に体験する至福の100分間!見て来たキャストはこちら。

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ガリレオ:コ・ヨンビン

ケプラー:チョン・ウクジン

マリア:キム・ボジョン

 あらすじ(ネタバレ!)

 物語は、ガリレオ・ガリレイの娘であるマリア・チェレステが、父からの伝言にあった「燃やしてほしい手紙」の入った箱を手にし、そこにあった手紙を読み混乱しているシーンから始まります。彼女は教会から、父の異端判定にあたって証言を求められていました。彼女が見つけた手紙は、ケプラーからのものでした。

――時はさかのぼり、ケプラーガリレオの手紙のやり取りが始まった経緯が語られます。ケプラーは自らの記した「宇宙の真理」を読み、その仮説を論拠付け、証明してくれる学者を探していました。あちこちの有名どころに「数学者のケプラーです」と手紙を送るも、なしのつぶて。そんな時、ガリレオだけが「おもしろかった」と気まぐれに返事をくれたのでした。感激したケプラーは、ガリレオに手紙を送りまくります。やたら思い入れ過多のアツイ手紙に困ったガリレオは「いや、最後まで読んでないので・・」とモゴり、ぐいぐい押してくるケプラーに及び腰になるのですが、ケプラーはまったくひるみません。むしろ「最後まで読んで判断してほしい。そして、この仮説を誰もまだ証明できていないのだ」とガリレオを挑発。挑発されると、ガリレオはつい興味を持ってしまうのでした。ケプラーの説は宇宙をくもの巣のようなものとして捉えようとしており独創的です。しかし、彼の惑星の運行に関する理論は「地動説」を前提に計算するしかない理論でした。なぜこのような問いを問うのか、また神を信じるのかとガリレオに問われたケプラーは、もちろん神を信じるとした上で、神はすべてに答える存在ではないといいます。むしろ、神が創造したその真理は、なぞなぞのように自分たちに投げ出されているのだというのです。数学者の彼は、誰に問う必要があるともいわれていないその問いに魅せられていました。火あぶりになるかもしれない「地動説」を推論に組み込みつつ論拠付けなければならないであろうこの共同研究の開始に、ガリレオは迷います。しかし、その理論の面白さに夢中になってしまうのでした。二人は星を観測し、その軌道を計算して、理論を精緻化していきます。やがて目測では限界があることに気づき、遠くを見るめがねを改良したような道具が必要であるとも考えるようになります。ケプラーは、おもちゃで売られている望遠鏡をガリレオに提示し、二人はこれを元に星を観測できる望遠鏡づくりに取り組みます。そんな風に研究に夢中になっていたガリレオの前に、彼の娘がやって来てきました。彼女は洗礼名マリア・チェレステを得たといい、修道女になることを告げます。驚きつつも娘を送り出すガリレオ。彼は望遠鏡が完成したとき、マリアに真っ先に星を見せたいと願うのですが、修道院の規則ではそれはかないませんでした。ガリレオはマリアに、望遠鏡の先に広がる、聖書の中の世界とは異なる「神の真理」を見せ、それを共有したかったのでした。二人の間には、二つの真理が横たわり、その関係をはばんでいるかのようです。

 やがてケプラーガリレオの研究は、仮説に論拠を得、かつ証明を完了させるに至りました。彼らは次に、理論を広く知らしめるために書籍を発行することにします。ケプラーは、タイトルとして「星からの使者」を意味する『Sidereus Nuncius』はどうかと提案しました。ガリレオは、ケプラーには「子供っぽい!」と答えつつも、実はノリノリでそのタイトルを採用します(おちゃめ・・)。しかし、本を出すには資金が必要にです。ケプラーメディチ家に支援をもらうことを提案。木星の衛星にメディチ家の息子たちの名前をつけるとかいいながら、この本の価値を説明すればいい!とシュミレーションしてみますが、結論として「地動説を支持し」・・と、言わざるを得ないとわかると「やっぱりだめだね!」とケプラーはあきらめるのでした。が、ガリレオは諦めていません。何がしかを思いついた様子。そう、ガリレオは理論そのものではなく、望遠鏡を売り込み、木星の衛星にメディチの息子の名前をつけ、その星々を見せることで資金をえることにしたのです。木星の惑星ぴろぴろをかぶって懸命におこなったガリレオのプレゼン(?)を評価したメディチ家の頭首は、二人の研究に援助を惜しまないことを約束してくれました。

 しかし、話題となったこの研究は、ガリレオの研究として一人歩きし始めてしまいます。ガリレオは当初ケプラーとの共同研究であることを主張していました。しかし、この本が「地動説」を支持しているように読めることから批判の的になり始めると、ガリレオはむしろその批判を一人で背負う決心をし、ケプラーの名前を出すことを控えるようになったのでした。ガリレオの学説が物議をかもす中、マリアは、教会から父が異端なのかどうなのか、その証拠はないかと問われます。そして、ケプラーからの手紙を読んだマリアは、父が行っていた研究の内実を知ってしまいました。父の研究はマリアにとって、神を冒涜することに等しいと思われました。ガリレオは、これは神の摂理を証明しようとしたものなのだと、必死にマリアを説得しようとします。ガリレオを取り巻く状況がどんどん悪化する中、ついにケプラーフィレンツェガリレオを訪れ、この研究は自分との共同であるのだから自分も責任を負うと主張します。しかし、ガリレオケプラーを追い返すのでした。ケプラーはほかの数学者たちに呼びかけ、学問的真理の追究と神の冒涜は異なるものだとガリレオを擁護する主張を展開します。

 他方マリアは、自らの信仰と父の主張の間で揺れ動く心を抱え、異端として告発すべきか胸を痛めます。そんな折、父の書斎におかれた望遠鏡に目を留めます。それを手にすることは神を冒涜する行為かもしれない、そう思いつつも、望遠鏡をのぞきこんだのでした。そして――そこからみえる星の美しさを目の当たりにしたマリアは、父が見ようとしていた「なにものか」を理解したのでした。父の研究は神への冒涜ではない。天動説も、あくまで教会がおこなった神の真理の一解釈に過ぎないではないか。マリアは父をかばい教会に陳情します。しかし、ケプラーやマリアまでもが教会から異端扱いされることを恐れたガリレオは、教会の審問に対して、自らの説の間違いを証言することを決意したのでした。

 フィレンツェを去ることになったガリレオは、マリアについてくるかと問います。マリアは今は行かないといいつつも、自分も望遠鏡をのぞいたことを父に告げます。その行為によって、ガリレオはマリアが自分の仕事を理解してくれていたことを知り救われるのでした。マリアはまた、修道女として、ガリレオに神の守りがあらんことをと告げ祈るのでした。そして、ケプラーからの手紙をガリレオにそっと渡します。「天文学者ケプラーです。新しい仮説を思いつきました。惑星は太陽の周りを公転しています!もちろん、地球も」「これを根拠付けるために、ケプラー望遠鏡、より性能のよい望遠鏡も発明しましたよ!」この手紙を読みながら、ガリレオは自分の研究が無駄ではなく、誰かの発見の基盤となっていることを知るのでした。「だれも問う必要がない」と思われている問いに、真理へ近づくことの魅力だけを動機としてとりくんでいる人がいる。一歩一歩は無駄に見えるかもしれないが、それは積み重なっていく。真理へ迫ろうとすることの喜び、それは神にそむくことではないというマリアの言葉、3人の思いが重なって・・幕(だったのではないかと、おおよそ・・)。

真理を探究する心を礼賛する「理科少年」のための物語

ミュージカルタイトルは『シデレウス』なのですが、ガリレオが書き上げた書籍の名前『Sidereus Nuncius(1610)』に由来しています。日本では『星界の報告』のタイトルで発行されているこの書籍には、望遠鏡のつくり方と、望遠鏡による月の観測、星座、木星の惑星等の観察記録が収録されているそうです。

 物語はガリレオが『星界の報告』を書き上げるまでの「誰にも問う必要があるといわれていないような問い」に夢中になってしまう「純粋な探求心」を描く部分と、その成果が社会的波紋を呼び当時の常識の中で葛藤を生じていく部分に分かれています。そして、いかに「すこしづつ」その「常識」の感覚が書き換えられていくのかが解決部分として展開していきます。マリア=旧来の世界観と真理 Vsケプラーガリレオ=新しい真理・「科学」により説明可能な真理、という構図がもちいられるため、単に旧来の世界は古臭く間違っていて、(もろもろ困難はあるにせよ)科学によって乗り越えられたという話なのかな?と思わされますが、マリアとガリレオらが「神の真理」とは当時の権威である「教会」がおしつける解釈の一つではなく人の智が及ばぬ何かである、という共通理解(第三の道)を得ていく過程を示すことで「世界は急にがらっとかわったりしない、少しづつ今の常識を変更しつつ変わるのだ」というリアリティを作り上げていたように思います。そして、社会を少しずつ変化させていくその動力として、世界に散らばる「不思議」に答えたいという純粋な好奇心が描かれるのですが。それを体現するケプラーガリレオのやり取りは、萌え死に必至な「理科好き少年」性にあふれています。目をキラキラさせ、時に資金調達に大胆な芝居を打つしたたかさを見せながら、「知りたい」という好奇心にのめりこんでいく二人。お互いの提示する解釈に盛り上がって時を忘れる二人。これ、反則やろ。

その一方で、科学の追及と真理を見つけたいという純粋な探求心が、神をも恐れぬものを発見してしまう『マリー・キュリー』と比較してみたら、それはそれでおもしろいかも・・ともおもわされました。