韓国ミュージカル☆ライフ

韓国ミュージカルを楽しみつくすブログ

ミュージカル「スリル・ミー」(韓国キャスト、2017年10周年版)見て来たよ-伝説はダテではない!チェ・ジェウン、キム・ムヨルペア編(3)

フォトブック、OST絶賛発売中の韓国版「スリル・ミー」。フォトブックのヒモをほどいたらもう二度とかわいく復元できないとうわさの韓国版「スリル・ミー」(単に不器用)。2017年2月14日~5月28日まで、ベガムアートホールにて上演中でございます。ぼちぼち前半ペアの千秋楽もせまってきております。みなさまベガムアートには足を運ばれましたでしょうか?

ーー大変ながらくお待たせいたしました(え、誰も待っていない?)。まもなく「韓国ミュージカルライフ」、第三幕開演でございます――ということで。なかなか記事がまとめてかけない今日この頃。かなり間延びいたしましたが、伝説チェ・ジェウン、キム・ムヨルペアの感想。しつこく続きを書いてまいりたいと存じます。

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(2007年初演時ポスター。ホラー映画か!)

 「彼」の若さゆえ・・が伝わってくる

 さて、阿吽の呼吸、オシドリ夫婦なウン・ムペアですが、キム・ムヨルさんの「彼」の魅力にも迫ってみたい。今回のムヨル・リチャードは中二病をこじらせた若者。しかも下手に頭が良いために「俺って超人(Byニーチェ)じゃん!」に微妙に回りもツッコめないでいる(たぶん)痛いやつ。考えてみれば、劇中での「彼」の設定年齢は20とかそのあたり(だったよね)。妙にスマートで大人びたふうな「彼」が少なくない中、人間のできてなさが実にガッツリと表現されたムヨル・リチャードは、原作イメージに最も近いというべきなのかもしれません。

だから、でしょうか。弟を殺すことを思いついたときの曲「The Plan」が、今回なんだかとってもしっくり腹に落ちた。もし弟を殺したら・・・と妄想する歌詞が展開するこの曲。もし弟を殺したら・・遺産が全部俺のものとか、父親はおかしくなるだろうとか、いろいろな状況があげられるのですが、その一つに「弟を殺せば、広い部屋が使えるようになる」という部分があるのです。いつもこの部分を聞くと、ダンディな「彼」がなぜそんなに部屋の広さにこだわるのかと違和感を抱かずにはいられなかった。しかし、ムヨル「彼」は違う。こいつなら言うだろう。根本的に小学4年生男子くらいのメンタリティに中二病が宿ってる20歳。今でも弟におもちゃ取られたのを根に持っていそうな「彼」・・。奇妙な納得感があるのです。

この役作り実にニクイ。じわじわ後半にきいてきます。

残酷な天使のように

「スリル・ミー」という作品では、後半二人が収監された際に「彼」が(「私」には気づかれていないと思いつつ)不安感を吐露する曲「Afraid」があります。演技プラン鉄仮面系「彼」や野獣系「彼」、DV「彼」であればその落差が一つの見せ場となるわけで。もちろん、このシーン直前の留置所での「彼」から「私」への懇願を踏まえてのここのシーンは注目ポイント。はい、ここね、大事なところです。というか、前後どこもかしこも重要ポイントでラインマーカー引きまくりですけれども!

話を戻しますと。とりつくろうことを忘れた「彼」の「怯え」を、実はしっかり聞いている「私」。この時「私」がどんな反応を見せるのか。「彼を崇拝していた私の絶望」なのか「とりつくろえなくなった彼を知ってしまったばつの悪さなのか」「彼にそんな吐露をさせてしまったことへの自戒なのか」などなどのバリエーションによって、無限に「彼」と「私」の関係性を妄想することができる。さらに言えば、この流れがあってこその「99年」(護送車のなか)での「私」の告白。この物語の核となるシーンなのです。「彼」の怯えを知ってしまった上で「私」は「彼」に事実を「どのように」告げるのか。最大の見どころがやってきます。

ウン・ムペアの「99年」シーンは超泣けました。それは、ムヨル「彼」が「Afraid」で子どものように泣き崩れ、そのことに胸が張り裂けそうな「私」という流れ、前フリあっての緊張感。なんでもないように軽口をたたきあう二人。「彼」にしてみれば、留置所での懇願へのばつの悪さと、「私」への期待がそこにあるのでしょう、そしてそれを「私」はわかっているということも、観客にはつたわってきます。この空気感がたまりません。「私」、辛すぎる・・!この「私」の辛さを理解できない「お子ちゃま」なムヨル彼がこのシーンを引き立たせもします。告白を通じて、「私」は「彼」との何を失ってしまうのか、そのことを「私」は、あの時、そして今、どのようにとらえているのか。最終シーンにつながるこのくだりが、ムヨル「彼」の役作り効果もあって、「私」の切なさを一億倍増しにするのでございます。もう、二人とも抱きしめてあげたくなりますよ(殺人犯だけどね!)。

ペア千秋楽は4月9日ソワレ

伝説のウン・ムペアのペアマッコン(千秋楽)は4月9日の6時公演。もちろんすでに9日のチケットはマチネもソワレも売り切れ中ではございますが。未見のかたは是非ウン・ム伝説ペアでの観劇をご検討ください。強く、強くお勧めしておきたく。本家という基準点あってこそ、さまざまなバリエーションが、より一層楽しめること請け合いなのでございます。

ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」(宝塚星組版・2017年)みてきたよ!-勇気とユーモアにワクワクさせられるパーシーが素敵

ミュージカル「スリル・ミー」の感想がいまだ途中ではございますが。速報(個人内速度にて計測)。ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」宝塚、新生星組バージョンが2017年3月10日~4月17日まで宝塚大劇場にて絶賛上演中でございます。さっそく見て来た報告をさせていただきたく。

韓国版のミュージカル「スリル・ミー」が2007年からことしで10周年を迎えるとしたら、今回「スカーレット・ピンパーネル」でパーシーを務める紅ゆずるさんは2008年に新人公演パーシーを演じて以来の9周年(何の比較にもなっていないきもするが)。なんだろう、とりあえずめでたい!ということで。

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(宝塚の「スカーレットピンパーネル」は誰が何といってもパーシーが主役!)

宝塚版の魅力「ひとかけらの勇気」力

宝塚版の「スカーレットピンパーネル」は、東宝版で上演されたものと異なり「王太子ルイ・シャルル救出」といいう使命が加わっております。このため、お話の密度がアップして、とても活劇としての魅力も倍増。さすが宝塚。フランス革命を描かせたら宝塚の右にでるものはございません。どれだけ宝塚大劇場フランス革命が起こっているとお思いでして?と言う状態なのです。

また、宝塚版用に書き下ろされた「ひとかけらの勇気」が、パーシーとマルグリットのすれ違いを解消し、二人の絆を確かなものにする役割を果たすのですが、この「ひとかけらの勇気」という楽曲がいい。自由を追い求め続ける勇気を持つことの重要さ、それを自分が行動することの必要性とともに語る歌。ロベスピエールたちの革命が恐怖政治へと変わりつつある中で、自分が行動を起こすことの必要性を「自分の決意」として歌い上げるこの歌は、人々を魅了し、人々を立ち止まらせ、本当の幸せとは何かを考えさせるのです。さらにいえば、この「ひとかけらの勇気」があるからこそ、ロベスピエールの(新曲)「ロベスピエールの焦燥」も、そして民衆の狂気、群集心理を象徴するような「マダム・ギロチン」が引き立ちもするのです。光がまばゆいほどに、影も濃くなる。月影先生(「ガラスの仮面美内すずえ白泉社)も言っていたではありませんか(確か)。

PPAPネタがここにも!

さて、昨年から世間をにぎわせるPPAP、ピコ太郎ネタでございますが。ついに18世紀フランスにも上陸(?)。紅パーシーは礼真琴さんのショーブランに君ももっとおしゃれしなよ!とピコ太郎ファッションを進めるアドリブシーンがあるのですが。すでに進化しつつあるのか、私の見た回ではショーブランがパイナップルを進められたときに一瞬考える間が挿入されておりました。これはいつの日か、ショーブランのPPAPがみられる時がくるのではなかろうか(いやない)!

このように「スカーレット・ピンパーネル」はアドリブ満載で飛ばしてまいります。それはパーシーというキャラクターの設定が、朗らかでユーモアあふれるちょっと馬鹿っポイ(ふりをしている)美丈夫というものだからでもあるのですが。紅ゆずるさんのキャラと相まって、人間力爆高、魅力あふれるパーシーに、内定出まくりなのでございます(なんの人事?)。

とはいえ、このパーシーの朗らかさを支えるのがダークサイド担当ショーブランとロベスピエール。この二人のダークな魅力もたまりません。もちろん綺咲愛里さんのマルグリットのフェロモン出具合もバッチリで、心があらわれること間違いございません。ワイルドホーン節に脳内が占拠されることも間違いございませんがね、「まだむぎーろちーん」(そっちか!)。

 

 東宝版の感想も書いていましたねー

pokos.hatenablog.com

pokos.hatenablog.com

 

 

ミュージカル「スリル・ミー」(韓国キャスト、2017年10周年版)見て来たよ-伝説はダテではない!チェ・ジェウン、キム・ムヨルペア編(2)

ミュージカル「スリル・ミー」もう御覧になられましたでしょうか。OSTは販売と同時に長蛇の列が生じ、そしてあっという間に第一次入荷分が売り切れたというすさまじさ。韓国版「スリル・ミー」2017年2月14日~5月28日まで、ベガムアートホールにて上演中でございます。地下階の劇場入り口には10周年記念(?)歴代キャスト一覧表も設置されておりまする。f:id:pokos:20170308224736g:plain

さて、前回まえフリだけで肝心の感想までいきつかなかったチェ・ジェウン、キム・ムヨル(ウン・ム)ペアの観劇記、続きとまいりましょう!

呼吸さえ浅くなる緊張感

「伝説のウン・ムペア」はまさに韓国スリル・ミーの総本山。元祖あるいは本家というにふさわしい、セクシャルなモノが極限に隠蔽された(だからこそ、実は強烈にセクシャルな)男同士のアツイ絆。韓国映画が得意とするような、オッサン同士のもやもやした阿吽の呼吸が見事に表現されていたように思えます。二人はまさに対等な力関係で幼いころからの同士でもある。でももちろん、そこには社会的に言われる「友情」以上の何かがあることが両者に自覚されているのです。そして、彼が私を試したり、それをわかって許容したりする「ゲーム」が彼らの間には成立している。まさに「共犯関係」にある二人。

そんな緊張感あふれる駆け引きが根底にある中での一場、バードウオッチングからの流れ、「彼」登場時の「私」の反応が秀逸なのです。純粋に彼が待ち遠しく、彼に合えたことがうれしすぎる様子が「私」からあふれる中に、「私」が彼とのやり取りの中にドキドキしている(恋のトキメキだけではなく、何らかのスリル。だからこそのセクシャルなドキドキ)様子が紛れ込んでいる。ここ、チェ・ジェウンさんの表情、声、間がうまい。そしてそれをうけるキム・ムヨルさんの「ちょっとアホっぽいヤンキーなボンボン」リチャードも絶品。この作品は、最初のシーンで表現された二人の関係が、後半の流れを決定してしまうともいわれているのですが、もう、二人の演技プランは完璧だと思われる。この最初あっての、最後の台詞「スリル・ミー」なのです。この流れが自然。だって出会った瞬間それ確認してたよね!と実感できる。そしてだからこそ、「너무 멀리 왔어Way Too Far」が染みるのです。もう・・ね。もう、見てください!!!と叫ぶほかない。

ジェウン「私」の良妻ぶりとムヨル「彼」のアホぶり

・・ちょっと冷静さを取り戻しまして。

このペアでまずもって心奪われるのはチェ・ジェウンさんの「私」キャラ。サイコでもワンコでも魔王でもない「本家」スタイルとはこのことか(サイコも魔王も好きだけれど)。まさに「共犯者」として「彼」によりそう「私」なのです。最初の場面でリチャードがたばこをくわえ火をかせと「私」に言うシーン、ここはペア事の解釈がかなりわかれており、二人の関係性がよく見えるのですが。チェ・ジェウン「私」は背後で完璧にマッチスタンバイオッケー。「彼」がタバコ吸うかもという空気をかもしたとたん、身についたものとしてすごく自然にマッチを差し出す「私」。この絶妙な間が二人の特別な歴史を感じさせる。しょっぱなからやらかしてくれますよ。この後、「私」が皆がリチャードを望んでも、「私」ほどではないと歌うのに納得しまくりです。私もそう思ったよ!と観客たちは心の吹き出し(音楽・演劇マンガ的表現)で叫んだことでしょう。きっと。

さて、できた妻にはえてしてアホ旦那が似合うというのが物語の常(?)。ウン・ムペアもこのセオリーに違わない。キム・ムヨルさんの「彼」はまさに「ガキ」。火付けで興奮しているときに上着を半脱ぎして「かもーん!」な様子を見ると、「おいおい、落ち着けよお前」とたしなめたくなる子どもっぷりなのです。それをニコニコ見守り、かつ自分も結構楽しんでいる「私」。もう、勝手に二人でよろしくやっておいてください!とみてるこっちが照れちゃうほのぼのラブ(いや、放火シーンなのですが)。もちろんその背景には、犯罪によってエクスタシーを得ている「彼」、それをみてさらなるエクスタシーを感じちゃう「私」という構造も見え隠れする。た、たまらん・・と、それぞれの表情をオペラグラスでガン見すること間違いなしなのです。

 

と、まだ前半の感想しかかけておりませんが。時間切れ!ということでこの感想はまだ続くのでありました!ひゃっほー(変なテンション)。