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韓国ミュージカル『マリー・キュリー(마리 퀴리)』見て来たよ(2018-9年、韓国、初演)―科学倫理・ジェンダー・祖国愛、ドラマティックてんこ盛りをどう料理するか

 韓国の創作ミュージカル『マリー・キュリー』の再演が決定されました!タイトルの通り、日本では「キュリー夫人」の名称で呼ばれることが多いマリー・キュリーマリア・スクウォドフスカ=キュリー)を主人公とするミュージカル。ノーベル賞を2度受賞した女性科学者である彼女の、科学者としての倫理を主題とする骨太ミュージカルでございます。演出家変更で上演される、2020年2月からの再演を目前にして、初演時の(書き忘れていた)感想を、今更ながら備忘録として書いておくことといたします。
 初演(試演)は、2018年12月2日から2019年1月6日まで大学路芸術劇場大劇場にて上演されました。韓国コンテンツ振興院主催の2017年ストーリー作家デビュープログラムで評価され、文化芸術委員会主催の2018年公演芸術創作産室今年の新作ミュージカル部門選定作という期待を背負っての上演。韓国演劇界の傾向として女性主人公の創作ミュージカルが少ないことが問題視されている中、韓国でのフェミニズム・リブートとも連動しながら現れたのが、『マリー・キュリー』だったのです。ミュージカル『レッドブック』に続く作品になるのか?期待は大きく、主役を張る俳優さんたちの気合も十分!見て来たキャストはこちら!

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マリー・キュリー:キム・ソヒャン
ピエール・キュリー:パク・ヨンス
ルーベン:チョ・プンレ
アンヌ:キム・ヒオラ
ジョシュ:キム。アヨン
ポール:チャン・ミンス
アメリエ:イ・アルムソル

 見た後書きとどめた限りのあらすじ

 マリー・キュリー と夫のピエール・キュリーは物質Xを取り除いてなお放射性物質を放つ元素の存在を仮定して研究を続けています。研究過程において、マリーは女性であることを理由に差別されていました。元素を確定しない限り、アカデミーはそれを認めないというのです。マリーは何年もかけて実験を続けるのですが、ピッチブレンド瀝青ウラン鉱、彼らはここからラジウム抽出を試みていました)を準備してくれている支援者のルーベンからも成果を急かされています。もう発見できないのかーー絶望に見舞われそうになった時、ついにキュリー夫妻はラジウム抽出に成功したのでした。二人は特許をとらず、広くラジウムが利用される道を開きもしました。
 功績をみとめられ受賞がきまったノーベル賞。しかしその受賞式では、ピエールの名前だけが呼ばれ、マリーは「その夫人」と添えられたにすぎませんでした。ピエールはこの発見の基礎には彼女の博士論文があることを主張するのですが、世間はそれを聞き入れません。彼女にはあくまで補助者、内助の功という評価しか与えないのです。マリーは、私たちはひとつのチームだからと自分を納得させつつも、自分の名前が呼ばれないことに苛立ち、また、家庭的なゴシップばかりを求めて記者に追いまわされることにウンザリしていました。ピエールは、そんなマリーに『ジャングルブック』を勧め、恐れを知るからこそ強くなれる、という言葉を示すのでした。しかしその時のマリーには余裕がなく、彼の言葉を深く受け止めることはありませんでした(ここ、フラグですよ!)
 新しい研究を始めなければ、と焦っていたマリー。そんな彼女にピエールは、自分の体についた傷がラジウムで回復したという事例を紹介するのでした。癌などの治療に使えるのではーー。ラジウムが病気治療に使えるかもしれない、この仮説をもとに研究を始めることになり、マリーは有頂天になります。
 他方ラジウムは、夜に真っ暗になるパリの街を照らすものとして、時計の塗料に使われるなど、活用が進んでいきました。時計を作っているアンダーク工場の従業員たちは、ラジウムの危険性が知られていなかったため、塗料のついた筆をなめて作業をしていました。彼らは専門的な技術職として扱われ、比較的高給取りでした。また、女性でも働ける職としても人気があり、職場は誇りをもって働く人たちの活気に満ちていました。モンマルトルのキャバレーに行き、芸術家たちと交流することを夢見る少年や、女性技術職として専門性を身につけられることを誇りに思っている女性、賃金で妹を大学に行かせたいと願っている女性などが工員として描かれていきます。ある日時計工場に、妹を大学に行かせたいといっていた行員アメリエの妹、アンヌがポーランドからやってきます。アンヌは頭が良いのですが、大学に行くお金がありません。姉妹はお金を貯めるため共に工場で働くことになりました。
 その頃、マリーはラジウムの治療目的使用のための動物実験を繰り返したのちおこなう、臨床実験の場を探していました。しかしなかか支援者は見つかりません。ついにフランシス(だっけか)病院から支援が受けられることに。喜ぶマリーとピエール。そんな彼らの下に、一通の手紙が送られてきます。マリーと同郷であるポーランド人、アンヌからのものでした。その手紙には、ラジウム工場の工員たちの歯は腐り、口がただれる症状が出ていることが綴られていました。マリーは、直ちにラジウムの危険性をマウスで検証することにしました。ラジウムが人体に悪影響を及ぼすなど、信じられなかった、信じたくなかったからです。マウスでの実験は途中まで順調でした。しかし、実験を継続するうちに、やがてマウスは死んでしまうことがわかりました。動揺するマリー。しかしこれは、第一回目の試験に過ぎないと自分に言い聞かせるのですが、この試験によって、ラジウムに危険性があることがピエールとルーベンにも知られてしまいます。 ピエールは直ちに世間にこのことを公表すべきだと主張しますが、マリーはそれを止めようとします。これが知られてしまったら、治療のための臨床実験までもが頓挫してしまうと思ったからです。一度臨床実験が白紙に戻ってしまうと、もう二度と機会がやってこないかもしれない。ルーベンも、ラジウムの危険性を公表するべきではないと主張します。そして、工員たちは梅毒で死んだのだ、娼婦が同じ症状で死亡したのだから、と彼らを見捨てます。その言葉に怒る死者の亡霊たちは、梅毒死とされたその悔しさ、未来を夢見たかつての自分を憐れむのでした(この各キャラパートの曲は涙モノです)。
 アンヌは仲間の死を前に、会社を訴える裁判を起こしました。そして話を聞き入れないマリーをあきらめ、ピエールに証言を依頼するのでした。ピエールは引き留めるマリーを振り払い、口論の末家を出ます。そして裁判所にいく途中、馬車事故にあって死んでしまうのでした。ピエールの証言を受けられなかったアンヌは、裁判に敗訴します。 そしてマリーの家に押しかけ、危険性を公開しないマリーを責めるのでした。しかしマリーは、ここで未来が閉ざされてしまうことを恐れているとその心情を吐露します。科学者としての責任と、科学が切り開く輝かしい未来の可能性にワクワクする自分の葛藤。マリーは迷います。
 そこに、ピエールの死の知らせがやってきます。絶望の淵に突き落とされるマリー。口論が最後の言葉になってしまったことを後悔し、これ以上何を実験すればいいのか、科学者としてどう生きていけばいいのかわからなくなります。自分は何をすべきなのか。絶望の中でマリーは考えます。そして、結論したのでした。――彼女はルーベンにラジウムの危険性を公表するように告げます。ルーベンは、単に金のためではなくラジウムが切り開く未来を信じているからこそ、その危険性を公表したくないと主張します。しかしマリーは、未来を閉ざさない方法でそれを公表する方法を選ぶことを彼に誓い、公表を進めるのでした。
 そして――ラジウムには、骨髄に影響して細胞を破壊する危険性があるとともに、癌治療に用いることができるという可能性を指摘したうえで、一旦は、臨床実験を中止することを宣言します。マリーは「恐れを知るからこそ強くなれる」というピエールの言葉を思い返します。実験室に戻ったマリーは、子どものころから科学に対していただいていた未知の世界へ踏み込む楽しさや輝きを再び感じるとともに、自らがすべきことに取り組みはじめるのです。
 実験の始まり。いつものように、実験日誌にマリーは書きます。放射能の使用における単位を規定し、活用のための基準値を定める実験を開始する。その単位の名前は「キュリー」。

「私」を主張することから、「使命を帯びた人間」へ

 本作『マリー・キュリー』は当初、女性主人公ですよ!女性がタイトルロールですよ!という記事がたくさん出たこともあって、韓国フェミニズムのムーブメントにのったエンパワーメントモノなのかな?と思っていたのですが。結構違っていた。観劇後は「女性を描く方法として(なんだかよくわからんが)もう一歩先にいくことにしたんだ」という感想を抱きました。あらためてなぜそんな風に思ったのだろう、と言う点を、おぼろげな記憶をもとに書き連ねてみたい(もう、ほぼ忘れてる・・)。

 この作品には、物語の最初の部分で、マリーは自分がキュリー夫人としか呼ばれないことにいらだち、「私はマリーだ!」と叫ぶ曲があります。これを見ると、一瞬マリーの女性としての葛藤をこれから描いていくのかな?と思ってしまう。しかしこの葛藤はあまり深められず、最後、彼女は新しい単位を創ることを決意しそれを「キュリー」と名付けます。あれ、なんか違うとこに着地した?みたいな感じがなくもない。

 しかし、マリーとキュリー、彼女の名前を構成するこの二つが最初と最後に出てくる点がミソだったのかな、と思う節もある。つまり、彼女が主張するものが、マリーという「私個人」を表す名前へのこだわりから、ピエールと共に成し遂げたチーム「キュリー」のメンバーとしての名称へと変化するのは、マリーにとっての人生の課題が、女性というジェンダーに由来する葛藤を乗り越えるかどうかではなく、自分が何を成し遂げたいのか、成し遂げられるのかという使命(マリーの場合は科学者としての能力と責任)に変化した、ということを示しているからでは、と思ったのでした。つまり、彼女が「キュリー」という単位を創ろうとした理由は、自らの業績を世間に認めさせるためではなく、個人を超えたもの(科学の神秘や人類の発展ぐらいの巨大レベルの理想)の一部として自分がなすべきことを理解し、それこそが自分がずっと大切にしてきた個人的な科学に対する希望や喜びと結びつくものだったのだと「発見」するからなのです。

 だからこそ、例えば主人公であるアンナが「私」を語ろうと苦闘するようなミュージカル『レッドブック』のような作品、「女性としての私」をいかに語るかフォーカスの「次」に来るものに見えたのかもしれません。語る声を手に入れることのできた「私」が、その次に何を語るべきかを問い、それに答えようとしたのが『マリー・キュリー』なのかなと思ったのでした。

盛りだくさんすぎるので整理は必要か

 さて、作品が目指した一歩先感は他にも随所にみられました。ガリレオ・ガリレイケプラーの交流を描く創作ミュージカル『シデレウス』などで描かれた、「科学する心の純粋さ」みたいなキラキラ表現を超えて、科学がもたらす負の部分もまた、キラキラによって発生するのだ、という現実を描こうとした点もおもしろかったです。しかしだからこそなのか、悪役ポジションのルーベンが、キュリー夫妻同様、科学の切り開く未来を信じているキャラとして描かれており、悪役らしくない悪役となってしまいました。これが初演当時「どっちやねんおまえ!わかりにくいわ!」みたいな感想をうんだりもしたようです。たぶん途中までシンプルな悪役風に描きすぎなんだと思うのですが・・。

 またアンヌは、マリー同様ポーランド出身の苦学生という設定。物語の中でかなり重要な役割を果たします。同胞であり、自分をロール・モデルとするアンヌからむけられるまなざしが、マリーに葛藤をもたらすのですから。とはいえ、今回の展開では、アンヌが一方的な糾弾者のようになってしまいがちだったところが、もったいなくもありました。実際のマリー・キュリーは、初めに発見した元素に祖国の名をいれてポロニウムと名付けたくらい祖国愛が強かった人だそう。なのでマリーとアンヌの関係を、同胞愛やらなんやらもろもろな関係を踏まえてガッツリ書いてもらえたりすると、「マリー」から「キュリー」へと一皮むける部分がわかりやすくなるのではなかろうか!と勝手に推測しておるのですが。さて、どうなりますか。再演ではアンヌとマリーの関係をクローズアップしつつ再構成していくみたいなので、かなり期待しています。

 ともあれ、のこされた課題はもろもろあるわけですが、(泣きツボは押さえつつ)いろいろ新しいことやってみよう!という精神と可能性にあふれた脚本だなあと思ったので、再演には期待を寄せております。伝記マニアとしては、楽しみなのでありました。個人的には、リーゼ・マイトナーとかでもミュージカル作ってほしいけど。

 

マリー・キュリー』音楽はどんな感じ?と思われた方に。マリーが、未知の領域の知へ駆り立てられる想いにきづき、自らの使命を自覚し歌う感動のラスト曲を。ミュージカル『マリー・キュリー』「予測できない、知られてもいないRep」です!

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演劇『R&J』(2019年、再演)見て来たよ―「演じること」がもたらすカタルシスを共に経験する舞台(その2)

 演劇『R&J』は2019年6月28日~9月29日まで、東国大学イヘラン芸術劇場にて上演中。「舞台席」なるシートがありますが、まさに舞台上に座り(というか、舞台に半分めり込む?席も)目の前30センチに俳優さんの息遣いを感じることのできる極上体験さえも可能ですので、複数回の観劇をおすすめしたい作品です。ではでは観劇記録の続きとまいりましょう。(その1はこちら)。

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 さて、その1でも書きましたが。この作品は、抑圧された学生生活を送る学生たちが、シェイクスピアの戯曲を自ら演じることによって、自分たちの中にあった情熱や愛、怒りなどの感情を掘り起こし、それを表現することを覚えるというストーリーと、彼らが演じる『ロミオ&ジュリエット』が交錯しつつ進んでいきます。当初、演じることに戸惑いや恥ずかしさを持っていた学生たちが、途中からだんだん本気になっていく様子が面白い。まずは学生1と2が、やがてそれをやや外側から眺めていた学生3と4が、自分の「感情をのせて演技してもいい」と気づくことで、彼らの劇中劇が本格的な劇となって舞台上に展開していきます。2幕からは観客の目の前には「学生たちが演じている『ロミオ&ジュリエット』」ではなく『ロミオ&ジュリエット』の舞台が展開していくのですがーー。

役柄を演じるからこそ露呈する演技者本人の姿

 学生1、2、3、4の全員が『ロミオ&ジュリエット』モードに突入してからは、複数人の人物を演じ分ける俳優さんたちそれぞれの役作りが一つの見どころとなります。この部分の表現が無限の広がりをもっていて、チケットの買い増しが無限に繰り返される地獄(タスケテー)。加えて、彼らが本気で演じ始めるからこそおこる現象が描かれます。「学生1、2、3、4」がもともと抱えているトラウマや抑圧されていた何かが露呈してくる様子、これが「シーンとして挿入」されていくのですが、まさに脚本的な妙と言えましょう。自らの感情を吐露するという行為を「演技」として「表現できる」ことに気づきはじめた学生達は、抑圧されていたもの、忘れ去ろうとしていたものを自らの中に次々と到来させていきます。特に印象に残るのはジュリエットがロミオ追放の知らせを受け、両親からパリスとの結婚を迫られるシーン。ジュリエット役の学生2は、父権的な抑圧への恐怖や絶望、そこからの逃避を願う感情、おそらく学生2と言うキャラクターの中にあったのであろう、自分の意見が全く聞き入れられないような何らかの経験を思い出し、感情を爆発させます。それに対し、父権的な力を行使する役割を担った学生3と4は、自らの中にあった暴力性を暴走させてしまい、学生2を痛めつけてしまいます。途中、自らの暴走に気づいた学生3と4はふと正気に戻り、憑依するかのように役に没頭することで発見してしまった自分自身の闇におののきます。学生2としての自己をジュリエットに託して演じ続ける友人の呼びかけに、「役柄」として答えることができなくなる学生3・4。芝居は中断するのか――。そんな空気の中、学生1が台詞を引き継ぎ発声することによって、学生3と4は、自らの感情を整理し、役柄と自分の間に一定の距離を置きつつ没頭することに自覚的になって、再び芝居へと復帰します。そして学生達は、『ロミオ&ジュリエット』を演じ切るのですが。

「演じること」の忘我から日常へ

 ジュリエットがロミオの死を知り自ら命を絶つシーンまでを演じ切った学生たちは、日常が戻る「足音」をききます。「夢の時間」は終わりを告げたのです。学生2・3・4は急いで熱演の中脱ぎ捨てた制服を整え、自分を押し殺すような日常へと戻ります。なかなか現実に戻ってこれない学生1は、皆を押しとどめようとするのですが、それはかないません。そんな彼に、学生2は『真夏の世の夢』の妖精パックが幕引きをした台詞を送るのでした。学生1はあきらめて再び制服を身に着け、日常に一度は復帰しようとします。あれは一夜の夢だったのだ。妖精パックが言うようにたわいもない夢なのだと自分に言い聞かせます。が、同時に、頭の中にあのシェイクスピアの言葉、皆が思いを込めて発した台詞が次々によみがえります。そしてーー学生1は、突然思い直したように上着を脱ぎ棄て、叫ぶのでした「ゆうべ、夢を見た」と。ーーで、幕。

 さて、演劇『R&J』では物語が幕を閉じた後、カーテンコールの終わりに、再び4人の俳優さんたちが制服を脱ぎ捨て、ネクタイを取り払いそれらを放り投げて「ふぅーっ!」と声を上げる瞬間で暗転する、というラストが用意されています。このシーンは、「『ロミオ&ジュリエット』を演じている「学生たちの『演技』の物語」」を演じていた俳優さんたちが、「自分に戻る(キ・セジュンに、ホン・スンアンに・・と言う風に)」瞬間のようにも、あるいは「学生」たちが再び「夢をみる」ことを選んだようにも見えます。この曖昧なシーン、ただ一つ間違いがないと思えるのは、そこにあふれる「芝居をやりきったぜ(かつ)もっと芝居やろうぜ!」という、彼らの無限の演劇に対する愛ではないでしょうか。あのシーンだけでご飯10杯いける・・という気分にさせられます。

演技は演者に何をもたらすのか?を表現する

 さて、私が演劇『R&J』が面白いなー好きだなーともだえ叫びたくなる一つの要因は、この作品が、役柄を演じることで、俳優さんたちは日々こんな経験をしてるのかもなぁ、と思わせる構成だからかもしれません。俳優さんたちは自らの「演技体験」を客観化して、観客にも「僕らこんな風に演技するっていう経験をしてるんです」と示してくれているような。だからこそ観客は、彼らと共に舞台を飛び回る「学生5」になれるような気がするのです・・。ええ、妄想なんですが。

 たとえば、ジュリエットに過剰に暴力を振るい、学生3・4がふとわれに返ってしまうシーン。ここで示されるのは、芝居をすることは単純な忘我ではないがそれに限りなく近いのだ、という感覚ではないでしょうか。そして、その境界的な領域では、無意識化された俳優本人の経験や思考がさらけ出されてしまうことがあるが、俳優たちはそれを暴走させるのではなく、再度物語中の「役柄」に回収できてこそ演技として成り立つのだ。そんな風に演技論チック(しらんけど)なうんちくを読み込みそうになるのです。俳優さんたちの表情、ふと劇中の「演技」から離れる瞬間と再度没入する部分。この変化には、本当にゾクゾクさせられます。と同時に、演じることを通じてつかめる、「私は何者なのか」という感覚とその満足感が「演技する」ことの喜びなんだよ、と言っている気もする。「学生」という社会的な役割のみで分類されている登場人物たちは、抑圧を受けてはいても、それに真っ向から挑むような、ある一定の形をとった「ほんとうの私」をもともと持っていたわけではないように思います。むしろ彼らは、芝居の中で『ロミオ&ジュリエット』の「役柄」を演じていくことによって、何に抑圧され、恐れているのか、そんな自分とは何者なのかを発見するのはないでしょうか。またこの「発見」は、演技によって何かの結末を見たと思えるかどうかにも大きく左右されている・・そんな含みがこの物語では示されているようにも思えます(これは次にもうちょっと考えて見たいと思います)。

「学生」たちが自分の言葉を一切話さないこの演劇は、『ロミオ&ジュリエット』をはじめとしたシェイクスピアの言葉、つまり「他人の言葉」だけを語っているにもかかわらず、より深く「私」を表現する、という演劇の本質(いや、しらんけど)を観客に体感させ納得させる、いや納得させなければならない、俳優さんの演技力ガチ勝負な作品だ!と感動・感激したのでございました。

演劇『R&J』(2019年、再演)見て来たよ―「演じること」がもたらすカタルシスを共に経験する舞台(その1)

演劇『R&J』が2019年6月28日~9月29日まで、東国大学イヘラン芸術劇場にて上演中。ジョー・カラルコの脚色・演出で1997年ニューヨークで初演された『Shakespear's R&J』の韓国再演(韓国初演は2018年)。厳格なカトリックの全寮制学校で暮らす男子学生4人が、夜中にこっそりと「ロミオとジュリエット」のリーディングを始めるという設定の本作品、演じる人間を演じる俳優たちの没入ぶりも見どころで、何回も見たくなること間違いなし。上演時間は二幕150分(公式)。しかしなぜかいつも3時間近くかかってしまうこの不思議。最初に見たのはこのメンバー!

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学生1:キ・セジュン 

学生2:ホン・スンアン

学生3:ソン・ユドン

学生4:ソン・グァンイル

ロミオとジュリエット』をこっそり演じる男子学生たちの物語

 本作品はシェイクスピアの『ロミオ&ジュリエット』を骨格とし『真夏の世の夢』『ソネット#18、116、147』『ヴィーナスとアドニス』の言葉が随所にもちいられ、構成されております。ジョー・カラルコの脚色・演出版をチョン・ヨン作家(『神と共に』等)が韓国語へと翻訳し、キム・ドンヨン(『新興武官学校』等)さんの演出、ソン・フィジンさんの振り付けを加えることで、超カッコいい韓国版の『R&J』に仕上がっておりまする。イヘラン芸術劇場の高さのある空間と厳かな照明、ここぞという場で効いてくる「音楽」による演出も、シビレル・・。

 さて、『ロミオ&ジュリエット』を演じるのは、厳格なカトリックの全寮制男子校に通う学生4人。彼らは日中、勉学にいそしみ学校が与える価値の中でのみ行動することを要求されています。規則に反すると体罰が与えられさえするのです。「嘘をついてはいけない」「盗みをはたらいてはいけない」「自らを欺いてはいけない」「だれも殺してはいけない」「欲望の奴隷にされぬよう――」機械的に繰り返し叫びながら、彼らは自分の中にある感情を押し殺して日常をやりすごしています。そんな彼らが発見した楽しみ。それは夜中に寄宿舎を抜け出して、隠してあった『ロミオ&ジュリエット』の戯曲を読みながら、それを遊び半分に演じてみること。それぞれの役どころを「誰がやる?」という風に目くばせしたり、お前がやれよ!とお互いアツを掛けたりしながら複数の役どころを演じていきます。男性キャラクターの「下品な」言葉におどけつつも盛り上がったり。乳母ややジュリエットの母などの「女性キャラクター」をわざとらしく演じて見たり。「嘘をついてはいけない」「自らを欺いてはいけない」そんな日々の抑圧を「べ、べつに本当の意味でこの言葉をいってるんじゃないんだからね!」とばかりに、学生達は「役柄」を免罪符にして禁じられた言葉を話す「自由」をひそかに楽しみます。喧嘩のシーンはこんな風に演じたらいいんじゃない?戯曲を包んでいた布を使って、演出の提案もしてみたりしながら。そのお遊びは、彼らにひと時の気休めをもたらす程度のもののはずでした。

 がそんな中彼らに最初の変化がおこります。普段の勉強用ノートにソネットをこっそり落書きするくらいのシェイクスピア信者で、上演にもっとも積極的な学生1は、遊び半分のほかのメンバーがちょっと不満。ジュリエットを演じることになった学生2も、「俺がジュリエットなの?」という風でわざと「男らしく」話してみたりして反抗的。しかし物語が本格的に展開し、ロミオとジュリエットが恋に落ちていく過程を演じるうちに学生1と2はどんどん「演技」にのめりこんでいくのです。そこで演じられる恋心が、学生1と2の心の奥底に初めから存在していたモノなのかどうか?それは見る人(と演じ手の演じ方)によって変わりそうな部分。実は学生1は学生2がもともと好きだったからこそジュリエットに抜擢?した、というような「学芸会あるある」としても読めます。また、学生2は秘めていた恋心を学生1に見透かされたようでドキドキしたからこそ、わざとジュリエットを「男っぽく」演じようとした、とも見て取れるのです。しかし個人的には、ここはあえて学生1、2は「演じているうちに、(戯曲に描かれた)恋心というものの在り方、衝動的に突き上げてくるような情熱を『つかんで』しまった」と言う風に捉えてみたい。

 恋の演技にのめりこんでいく2人を目にして、学生3と4はちょっと慌てます。ちょっとちょっと、なにマジになってんの。こんなの遊びじゃないか!おもわず「演じる」ことをやめさせようとさえします。学生達が日常の中で刷り込まれた「欲望」への恐怖がそんな風に彼らを駆り立てるのかもしれません。この学生3と4の劇を継続することに対する妨害は、『ロミオ&ジュリエット』の主人公二人の恋路を邪魔し、その間を引き裂こうとする力を示す演出にも見えるという「う、うまい・・」と唸らせられる部分です。妨害にも関わらず、二人があくまでも「演技」を続けようとする姿を見ているうち、学生3・4は自らの中にあった(たぶん「自分」を解放してしまうことへの)恐怖をふと相対化できるようになります。そして彼らは、「演技」に正面から向かい合う決意をするのです。この、学生3と4の中に起こる変化が、舞台の空気を一変させます。ここから二幕最後までの「もってかれる・・!」感が半端ない。学生3と4がそれぞれ「こんな風に(のめりこむほどに)演技していいんだ・・。」と吹っ切れるところから、彼らの演じる『ロミオ&ジュリエット』のレベルが爆上がりします。俳優さんたちが押さえていた(?)演技力も爆発しますよ!

つか、ここまで書いてまだ1幕の内容ですな・・。長いな。書いたら(見たらあっという間!)。

・・・というわけで、続く。

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