ミュージカル「スモークSMOKE」(2018年、日本版初演)見て来たよ―作り手の情熱半端なし!韓国版を愛する人も納得の舞台?

韓国創作ミュージカル「スモーク」日本キャストでの日本版初演が、2018年10月4日~28日まで東京、浅草九劇にて上演中でございます。韓国の国民的詩人で作家である李箱の苦悩と死をめぐる謎を扱う本作品は、韓国で2016年のトライアウト公演時から熱狂的ファンを生み、2017年初演、2018年再演と順調に公演を重ね、ついに海を渡ることになったのです。李箱が最後を迎えた地であり、朝鮮半島近代文学形成と消費文化の成立に大きな影響をあたえ、同時に葛藤と苦痛の根源でもあったかつての〈日本〉。李箱にとって憧れでもあり憎しみの対象でもあったこの地で、この作品が上演される意味は大きいとおもわれます。李箱先生であれば、この作品をどのようなアイロニーで語ってくれるのでしょうか・・・。

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(人混みすさまじい雷門前から少し離れ、地元感あふれる商店街に位置する劇場)

・・・などと真面目に始めましたが、私はアイロニーも何もなく、とってもベタに「とりあえず見てくれ!」と叫びたい気持ちでいっぱいです。私が見て来たキャストはこちら。

へ:日野真一郎/木暮真一郎

チョ:大山真志

ホン:池田有希子

※ホンのダブルキャスト高垣彩陽さん回は未見。残念。

musical-smoke.com 

客席との一体感あふれる舞台

 浅草九劇に設置された舞台は四方囲みで舞台を客席が覗き込むスタイル。しかも各辺の座席は2-3列。全席数が80程度かとおもわれる密度の高い空間です。韓国版See What I Wanna Seeを見たときのような「客席も舞台なんだ的緊張感」にあふれておりました。各辺には、詩が書かれる机、絵の具が並べられた机、コーヒーと酒と蓄音機が置かれた机、ベッドが配置されており、中央にはテーブルと2脚の椅子が。四辺の角には入口の枠と鏡となるであろう枠が置かれ、まさに「四角形の中の四角形の中の・・・円」で俳優さんたちは演技し、歌うのでございます。鏡となる枠はスクリーンになっており、絶妙に映像が演出として組み込まれていたりもして。制作陣が、「スモーク」の世界観を大切に読み解き作り上げた空間であることが、ひしひしと伝わってきます。

さあいいですか、特に一列目のチケットを手にしてしまったかたがたは覚悟してください。俳優さんたちが目の前30センチくらいに迫り、ぎらぎらと(あるいはきらきらと)目を輝かせ、汗をとびちらせながら歌う姿を、ぎっちり目を合わせながら聴いてくださいよ。不思議と気まずかったり、恥ずかしいなんてことはないでしょう。だってその頃には、劇場内は客席ごと李箱の脳内にトリップしているはずなので。漂流教室ならぬ、漂流劇場(意味不明)。特に最後の曲「翼」では、たぶん皆10センチくらい浮いてたと思う!

「スモーク」はどのように日本語になったか

さて、今回もろもろ気になっていたことの一つとして、スモークの台本はどのように日本語になるのか、というのがございました。韓国語の語数そのまま日本語(特に歌詞)にはできません。「スモーク」の繰り返しや言い換えの多い歌詞や台詞は李箱の世界観、その迷宮性をよく表している。ですが心配ご無用!でした。口語と記述的な文体をうまく調和させ、日本語としてキレイにまとまったセリフは、あの「スモーク」の世界をきっちり再現しておりました。作り手の「スモーク」愛、半端ねえ!

しかし、もしこの作品の再演があるとしたら(気が早い)――期待してしまう、マニア目線でのもう一つコダワリを書いておきたいと思います。それは、一人称翻訳問題。韓国語なら「나」で済んでしまう一人称。日本語にする限り「私」「ぼく」「おれ」「あたい」「おいら」「わて」などとバリエーション豊かで、キャラクター・イメージを含んだ言葉を選ぶほかありません。『フランケンシュタイン』の日本版において「うーむ、怪物って俺キャラだったのか」と、もやっと感をかかえた記憶もよみがえったりして。

また、こうしたキャラクター・イメージの問題を超えて、「スモーク」は日本と韓国という二つの国に引き裂かれた李箱自らの自意識をめぐる物語であるため、より「翻訳」の重みが問われる作品だとも思っています。当時の朝鮮半島で「自分はなにものか」を突き詰めて考えることは容易ではなかったはず。単に植民地であったという政治体制の問題だけでなく、「私」というアイデンティティ概念やそれを語る「近代的な語彙」が、日本語を経由してもたらされたという文学史的なこととも関連している。語りにおける「나」は、近代的な「私」を描写しようとした当時の朝鮮半島の文学が、苦闘の末獲得しようとしたものですが、しかしかつては、日本語によって(あるいはその概念を経由して)まず思考されるしかなかったもの。この矛盾とアイロニーの中で、李箱は「チョ」的な自我をどの日本語の「私」として意識したのだろう。あるいは「ホン」の女性性を女性言葉によって表象しようとしただろうか。こんな妄想が始まってしまうと、「チョ」=俺、「へ」=ぼく、「ホン」=わたし、が王道だとおもいつつも、他の「チョ」がありえたのではないか?「キム・ヘギョン」は「ぼく」のままなのだろうか?と考えずにいられないのでありました。初見の方への親切さと、物語のエンターテインメントとしての情報量の調整という意味では、今回の翻訳は本当によく考えられており、やはりこれしかない、とは思うのですが。マニア目線で欲を出すと、あえて「俺」キャラの「ヘ」や、「私」キャラの「チョ」なんかをキャスト違いで設定してほしかったな・・!と思ってしまったのでありました。というわけで、再演ではこのあたり「飛んで」みてほしい!

ともあれ、おススメです!

また、今回日本語版で「スモーク」という作品と出会われた方は、ぜひ韓国語版(次回はいつ上演かわかりませんが・・)もご覧くださいませ!