韓国ミュージカル☆ライフ

韓国ミュージカルを楽しみつくすブログ

ミュージカル「エリザベートー愛と死の輪舞」(宝塚月組公演・2018年版)見て来たよーちゃぴエリザには、そりゃあ「死(トート)」も惚れるさ

ミュージカル「エリザベート」宝塚月組公演、2018年版は2018年8月24日に幕をあけ、10月1日まで宝塚大劇場で上演後、10月19日~11月18日まで東京宝塚にて上演予定でございます。

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月組公演 『エリザベート-愛と死の輪舞(ロンド)-』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

可憐、硬質な冷たさと強さを秘めたエリザベート

ちゃぴこと月組娘役トップの愛希れいかさんの退団公演となる今回の「エリザベート」。本人が強く希望していたという本演目はほんとうに彼女にふさわしく、可憐な少女時代から、孤独と死の香りをまとい隠しきれない妖艶さ駄々漏れな老年時代までを見事に演じておられました。王室での葛藤、自由を渇望し周囲に心を閉ざしていく過程が痛々しくもあり、そこで見せる決意や拒絶の氷の女王っぷりには「モ、萌え!」とつぶやかずにいられない美しさ。「死」さえもはねつけるその強さは、「ああ、この人一人でも踊れるよ」と確信させる半端ない輝きを放ちもする。最後にすべてを受容し、「自分のためだけの自由」を守ろうと着こんだ鎧を解き放ちトートの腕に身を任せた彼女の透明感にも心打たれました。天使ってこの人のことですか?ブラヴァ―!

珠城りょうさんの「死(トート)」は安らぎ感満載・・

さて、愛希れいかさんがエリザベートをする限り、トートは月組トップの珠城りょうさまがするしかない・・。が、珠城りょうさんのトート閣下は頼りがい感ありすぎて、「シシィ、もう閣下に頼っとけよ!」とアドバイスしたくなる。いかんいかん、それでは話がすぐに終わってしまう。また、黒天使メンバーの親分感も半端なく、黒天使たちが「親分をそでにしやがって!このアマ!」とか言い出すんじゃないかと心配してしまいましたよ。また、個人的には宝塚・ロンゲトートの系譜に「韓国版トート」のような短髪を入れるとするなら、このタイミングではなかっただろうか!と思ってしまった。絶対、短髪なほうが、より珠城りょうさんのトートはカッコよくなると思います!

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(黄泉の国の暴風にさらされて髪の毛ぼさぼさな人もいますが。韓国トートヘアスタイル集)

 

 

 

 

 

 

ミュージカル「スモークSMOKE」(2018年、日本版初演)見て来たよ―作り手の情熱半端なし!韓国版を愛する人も納得の舞台?

韓国創作ミュージカル「スモーク」日本キャストでの日本版初演が、2018年10月4日~28日まで東京、浅草九劇にて上演中でございます。韓国の国民的詩人で作家である李箱の苦悩と死をめぐる謎を扱う本作品は、韓国で2016年のトライアウト公演時から熱狂的ファンを生み、2017年初演、2018年再演と順調に公演を重ね、ついに海を渡ることになったのです。李箱が最後を迎えた地であり、朝鮮半島近代文学形成と消費文化の成立に大きな影響をあたえ、同時に葛藤と苦痛の根源でもあったかつての〈日本〉。李箱にとって憧れでもあり憎しみの対象でもあったこの地で、この作品が上演される意味は大きいとおもわれます。李箱先生であれば、この作品をどのようなアイロニーで語ってくれるのでしょうか・・・。

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(人混みすさまじい雷門前から少し離れ、地元感あふれる商店街に位置する劇場)

・・・などと真面目に始めましたが、私はアイロニーも何もなく、とってもベタに「とりあえず見てくれ!」と叫びたい気持ちでいっぱいです。私が見て来たキャストはこちら。

へ:日野真一郎/木暮真一郎

チョ:大山真志

ホン:池田有希子

※ホンのダブルキャスト高垣彩陽さん回は未見。残念。

musical-smoke.com 

客席との一体感あふれる舞台

 浅草九劇に設置された舞台は四方囲みで舞台を客席が覗き込むスタイル。しかも各辺の座席は2-3列。全席数が80程度かとおもわれる密度の高い空間です。韓国版See What I Wanna Seeを見たときのような「客席も舞台なんだ的緊張感」にあふれておりました。各辺には、詩が書かれる机、絵の具が並べられた机、コーヒーと酒と蓄音機が置かれた机、ベッドが配置されており、中央にはテーブルと2脚の椅子が。四辺の角には入口の枠と鏡となるであろう枠が置かれ、まさに「四角形の中の四角形の中の・・・円」で俳優さんたちは演技し、歌うのでございます。鏡となる枠はスクリーンになっており、絶妙に映像が演出として組み込まれていたりもして。制作陣が、「スモーク」の世界観を大切に読み解き作り上げた空間であることが、ひしひしと伝わってきます。

さあいいですか、特に一列目のチケットを手にしてしまったかたがたは覚悟してください。俳優さんたちが目の前30センチくらいに迫り、ぎらぎらと(あるいはきらきらと)目を輝かせ、汗をとびちらせながら歌う姿を、ぎっちり目を合わせながら聴いてくださいよ。不思議と気まずかったり、恥ずかしいなんてことはないでしょう。だってその頃には、劇場内は客席ごと李箱の脳内にトリップしているはずなので。漂流教室ならぬ、漂流劇場(意味不明)。特に最後の曲「翼」では、たぶん皆10センチくらい浮いてたと思う!

「スモーク」はどのように日本語になったか

さて、今回もろもろ気になっていたことの一つとして、スモークの台本はどのように日本語になるのか、というのがございました。韓国語の語数そのまま日本語(特に歌詞)にはできません。「スモーク」の繰り返しや言い換えの多い歌詞や台詞は李箱の世界観、その迷宮性をよく表している。ですが心配ご無用!でした。口語と記述的な文体をうまく調和させ、日本語としてキレイにまとまったセリフは、あの「スモーク」の世界をきっちり再現しておりました。作り手の「スモーク」愛、半端ねえ!

しかし、もしこの作品の再演があるとしたら(気が早い)――期待してしまう、マニア目線でのもう一つコダワリを書いておきたいと思います。それは、一人称翻訳問題。韓国語なら「나」で済んでしまう一人称。日本語にする限り「私」「ぼく」「おれ」「あたい」「おいら」「わて」などとバリエーション豊かで、キャラクター・イメージを含んだ言葉を選ぶほかありません。『フランケンシュタイン』の日本版において「うーむ、怪物って俺キャラだったのか」と、もやっと感をかかえた記憶もよみがえったりして。

また、こうしたキャラクター・イメージの問題を超えて、「スモーク」は日本と韓国という二つの国に引き裂かれた李箱自らの自意識をめぐる物語であるため、より「翻訳」の重みが問われる作品だとも思っています。当時の朝鮮半島で「自分はなにものか」を突き詰めて考えることは容易ではなかったはず。単に植民地であったという政治体制の問題だけでなく、「私」というアイデンティティ概念やそれを語る「近代的な語彙」が、日本語を経由してもたらされたという文学史的なこととも関連している。語りにおける「나」は、近代的な「私」を描写しようとした当時の朝鮮半島の文学が、苦闘の末獲得しようとしたものですが、しかしかつては、日本語によって(あるいはその概念を経由して)まず思考されるしかなかったもの。この矛盾とアイロニーの中で、李箱は「チョ」的な自我をどの日本語の「私」として意識したのだろう。あるいは「ホン」の女性性を女性言葉によって表象しようとしただろうか。こんな妄想が始まってしまうと、「チョ」=俺、「へ」=ぼく、「ホン」=わたし、が王道だとおもいつつも、他の「チョ」がありえたのではないか?「キム・ヘギョン」は「ぼく」のままなのだろうか?と考えずにいられないのでありました。初見の方への親切さと、物語のエンターテインメントとしての情報量の調整という意味では、今回の翻訳は本当によく考えられており、やはりこれしかない、とは思うのですが。マニア目線で欲を出すと、あえて「俺」キャラの「ヘ」や、「私」キャラの「チョ」なんかをキャスト違いで設定してほしかったな・・!と思ってしまったのでありました。というわけで、再演ではこのあたり「飛んで」みてほしい!

ともあれ、おススメです!

また、今回日本語版で「スモーク」という作品と出会われた方は、ぜひ韓国語版(次回はいつ上演かわかりませんが・・)もご覧くださいませ!

ミュージカル「イブルデッドEVIL DEAD」観覧記ー夏だ!ゾンビだ!流血だ!

ゾンビホラーなB級お笑いミュージカル「イブルデッドEVIL DEAD」が大学路ユニフレックス1館にて上演中。2018年6月12日に幕を開け、もうすぐ終わってしまう8月26日まで。みなさま血はたっぷりかぶられましたか?私は血塗られる方々をのんびりみる「雪原席」で鑑賞させていただきました。見てきたキャストはこちら!

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アッシュ:ソ・ギョンス

スコット:ウ・チャン

アニー・シェリー:キム・リョウォン

リンダ:ソ・エリム

シェリル:ソン・ナヨン

映画「死霊のはらわた」ミュージカル版

本作品は、日本では「死霊のはらわた」として公開された映画The Evil Deadのミュージカルバージョン。映画の1と2の主人公たちが一緒に活躍し、3の一部分もとりいれられた豪華(?)もりだくさんな内容。一応ミュージカル版のオリジナルは2003年カナダ・トロントで初演を迎えている模様。韓国では2008年に上演されており、リュ・ジョンハン、ヤン・ジュンモ、チョ・ジョンソクらが参加したという、伝統ある作品です。それが2017年に久々の復活をとげ、昨年に引き続き本年も上演の運びとあいなりました。「死霊のはらわた」がそうであるように、本作品も大変「B級」。そして無駄に音楽が「ミュージカル」。それも、大劇場ミュージカル的楽曲(でも演奏はバンド)でもりあがる、もりあがる。さまざまなミュージカルのパロディもはいって楽しめます(突如、「メン・オブ・ラマンチャ」の曲にスライドしちゃったりして)。そして最後はライブ!ゾンビとともにダンスを楽しむ大学路ミュージカルあるあるスタイルです。途中拍手したり悲鳴を上げたり、「あらあら、まあまあ」と驚いたりすることを観客に強くお願いする「参加型」作品。そして、声をだすだけではなく、登場人物たちとおなじように観客も「ゾンビ」となるべく、血糊をぶっかけられる席が指定されているという過激さです。最前列なのにパイプ椅子!基本、MDショップの「イブルデッドTシャツ」を着用することが望まれている。お土産に、血まみれのTシャツはいかがでしょうか。

1幕2幕前の「観劇の際の注意」が超面白い

このミュージカルは「参加型」。観客はさまざまな「参加」のお願いをされるのですが、それは1幕前の「観劇の際の注意」からはじまります。通常、開演前には「上演中の許可されない撮影や録音は禁止です。携帯電話の電源はお切りください」といようなあたりさわりのない注意がなされますが・・。この劇の「注意事項」は、おもしろ注意喚起で有名なLGアートのメンションをはるかに超える充実度。「すでに、劇場の人にも散々注意されているとおもうので、ここでは重要なことしかいいません」などと前置きしておきながら、「観劇中の撮影、携帯電話での通話、メッセージの確認、送信、受信、ほかのサイトの確認・・などはやめてください」というように、やたら長い!しかも観劇中の禁止事項として、「靴を脱ぐこと、靴下を脱ぐこと、背をわざとたかくみせること・・はしないでください」などと、やたら細かい事項がならべられ、劇場はこの段階から笑うしかない状況に。そして、「この劇を見た皆さんは、愛、家族、死を哲学的に考えてみる・・必要はありません。ストレスの多いこの時代、すっきりして帰ってくださいね!」といような、B級宣言がなされるのです。そう、この劇は、キャーキャーいって、げらげら笑ってナンボなエンターテインメントなのでございます。

スプラッター席がエンタメ度を上げるよ

さて、さきほどこの劇には「スプラッター席」なるものが設定されており、劇中にゾンビから血糊を浴びせられるとおつたえいたしました。一応、マチネも設定されている本ミュージカルでは、スプラッター席にすわりながらも、血糊をあびることを最小限に抑えようとする優柔不断なお客様のために、レインコートが配布されるのですが・・。しかし、常連が大半とおもわれるスプラッター席の観客たちは皆、レインコートをはがされる覚悟、被り物を剥ぎ取られる覚悟もされているようで、劇場前にはビーサンにイブルデッドTシャツ、パジャマみたいな半パンといういでたちで、ん?ここは海の家かな?的風景が広がります。ゾンビになるき満々といいましょうか。

しかし、こうした皆のやる気が裏目にでてか、観客席前方「スプラッター席」のひとびとがゾンビのいけにえになる二幕開始前には、「2017年には、『本当に(血糊を)かけられるの??』という緊張から、皆さん自然に悲鳴を上げてくださいましたが、2018年にはいってから、『さあ、おかけなさい』というような態度がみられるようになりました。悲鳴の量が減っております!非常に残念です。この問題は、われわれではなく、皆さんの責任です。さあ、悲鳴を出す練習をしましょう」みたいに言われ、叫ばされるのでありました。ゾンビ化にむけてやるき満々なのも考え物なのです。

ちなみに、「スプラッター席ではないかたがたは、ゾンビの餌食になるひとびとをみて「あらあら!」とか「わー」などと、声を上げてください」などと指定もはいりますので。とりあえず、このとき一緒に「発声練習」をして、気分をもりあげておきましょう。

 

で、肝心の物語なのですが・・とりあえず力尽きたので、続く。

 

ちなみに、ストーリー関係なく楽しめますので、夏のフランケン観劇滞在中の方は、ぜひ・・!・・・いや、フランケンみたほうがいいかな・・いや・・もしよろしければ・・ぜひ!・・・(ためらいが・・)。