韓国ミュージカル☆ライフ

韓国ミュージカルを楽しみつくすブログ

ミュージカル『デスノート』(2023年、韓国キャスト、三演アンコール)見てきたよーエンターテインメント性あふれる映像演出がすごい

ミュージカル『デスノート』韓国キャスト版3演アンコールが2023年3月28日~6月18日、シャルロッテシアターにて上演中。この後大邱、釜山をまわる本公演、韓国版の版権がODカンパニーに移ってのニュープロダクション。韓国国内メンバーでの新演出となりました。見てきたキャストはこちら。

夜神ライト:コ・ウンソン

L:キム・ソンチョル

レム:イ・ヨンミ

リューク:ソ・ギョンス

ミサ:リュ・イナ

新演出版のスペクタクル

 ODカンパニーに制作会社が移り、ノンレプリカ韓国演出版に変わった三演。2022年4月から8月にかけての上演であったため、ビザ問題もあり、日本からはなかなか気軽に見に行けない時期でした。虚無にとらわれながら見送ったあの作品が、今回(多少メンバーの入れ替わりはありましたが)無事アンコール公演となったわけで。この気を逃すまじと見に行って参りましたよ。とはいえホンガンホ×ジュンス回の血ケッティングを勝ち抜く根性はなく、とりあえず見られそうな回行っとくか!と選んだのですが。めちゃ堪能できました。適当に選んだとか言ってごめん、ソンチョル、ウンソンさん。

 俳優さんたちの熱演はもちろんなのですが、今回「韓ミュ・・恐ろしい子!」と白目にさせられたのはその演出。舞台三面をLED画面にして映像を映し出し、俳優の演技と歌、映像効果をリンクさせる凝ったものでした。練習めちゃ大変そう!

 例えば、リュークとレムのいる地獄(天界?)からデスノートが人間界に落とされ、ライトがそれを拾う場面への転換は映像が担います。これによって暗転を必要とせず、二つの場面がつなげられる。観客の目の前に広がるのは映像を用いた演出なのですが、そこには漫画のコマを読み進めるときのような快楽がありました。読者の視点がコマとコマの間を埋めるとき、その「間」に込められた意味が前後のシーンをつなぐ。まさにそんな役割を映像が担っているような気がした。ちょ!これすごくないか。マンガが原作なことが生かされている気がする(妄想かもしれないが)。また、異なる場所にいるはずの人々を並列して見せたり舞台の前後に配置して見せるとき、映像で舞台上に線を走らせることで、コマで区切られたような重層的な「空間」を作り上げたりもしています。さらには、ライトやLが置かれた場所がゲームボードのように演出されることで、彼らの真剣なやり取りや頭脳戦も、しょせんはそれ自体が「(死)神のゲーム」に過ぎない、というメッセージに落とし込まれるあたり、ぐぬぬぬ、と唸らずにはおられませんでした。

 漫画やアニメなどで原作を知っていれば問題ないのでしょうが、これまで『デスノート』のミュージカルは、まあまあざっくりしたお話と展開で、キャラクターの感情のつながりがいまいち見えにくかったように思います。というか、今回の演出版を見て、わかりにくかったよなアレは!と実感した。さらに、お互いの腹のうちを探りあう緊張感に満ちた原作漫画の心理戦は「ミュージカルには無理!」と切り捨て、正義とは何か、人間に与えられた領分とは?みたいな「ミュージカルあるある」の王道路線にストーリーの力点を置いたのも見やすくなった理由かなと。それだけに、俳優さんたちのやり取りがより熱をもって楽しめたように思います。

演出家キム・ドンヨンとは

 この衝撃的舞台を作り上げた演出家キム・ドンヨンさんは、私を一時期大いに狂わせた『R&J』の演出家としてまず脳内に刻まれているのですが、軍ミュ『帰還』や『新興武官学校』『ジェントルマンズガイド』など、そいやあの頃から映像の使い方が絶妙な演出してたな・・と遠い目になったりもする方で、劇団「詩人と武士」の代表でもあられます。武士て‥(あってる?)。

 この度『デスノート』三演を評価され、第7回韓国ミュージカルアワードの演出賞を受賞されました。いやもう、信じて任せる演出家であることは間違いないわけですが、ちょっと、信頼の一万倍くらいすごいもん見せていただいたんですけど??という感じ。チケットが取れるものならば、何回も見て演出の中に仕込まれたメッセージを読み取りまくりたいものです。

 とはいえ、大劇場作品である『デスノート』。昨今のチケット値上がりをうけなかなかのお値段。まあ、このメンバーでこの演出だったらこれくらいかかるかもしれないと思う一方で、おさいふにやさしくないことは間違いありません。韓ミュの盛り上がりはうれしいけれど、円ベースで生きるオタクのつらさは増しマシで、まだしばらくは続きそうですね・・。

ミュージカル『種の起源(종의기원)』(2022-3年、韓国、初演)見てきたよー小説の語りをいかにミュージカル化できるか

韓国創作ミュージカル『種の起源』が2022年12月18日~2023年3月5日まで、ドリームアートセンター1館にて上演されました。韓国のベストセラー小説家、チョン・ユジョンのサイコミステリを原作とする本作品。「悪の三部作」と呼ばれるシリーズ小説完結編のミュージカル化でございます。見てきたキャストはこちら!

赤ハン・ユジン:パク・ギュウォン

青ハン・ユジン:ペク・ドンヒョン

キム・ヘジン:パク・ソニョン

キム・ジウォン(母)/キム・ヘウォン(叔母):ジュア

悪はいかにして発生するか?

 主人公ハン・ユジンは水泳選手として競技を続けることを渇望しているのですが、叔母に処方された薬と母の強い反対でそれを断念せざるを得ない状態にあります。彼は幼い頃家族旅行で海へいき、父と兄を事故で失っており、それ以来、母と叔母はユジンを監視しているのです。母と叔母の抑圧に耐え兼ねこっそり薬を飲まずにやりすごしたユジンは、目覚めるとそこに惨殺された母の死体を見つけるのでした。じゃじゃーん。母を殺したのは誰なのか。養子として家庭に迎え入れられともに育った義兄ヘジンに心配されながら、目の前にあらわれるもう一人のユジン(赤ユジン)のささやきにいら立つユジンなのですが…。

 まあ、ここまで聞くとわかる人にはわかるのではないでしょうか。そうです。ユジンが悪い奴です。サイコパスです。最後には人類超越するとか言っちゃいます。しかも海外進出します。以上です…。

 今回、原作を読まずにチャレンジしてみたのですが、観劇後、ちゅ、厨二病?と叫ばずにはいられませんでした。おばちゃんにはもう、特別な自分に気づく物語とかちょっときついんやわ、と思わざるをえなかった。なんだろう。体調かな。3年ぶり大学路一発目がこれだったのがよくなかったのかもしれません。韓ミュ免疫が失われているのかもしれない。キャストは悪くないはずなのに…。というわけで『種の起源』に激しい拒否反応を感じたのはなぜだったのか。そのあたりについてちょっと考えてみたい。

二人のユジン、その効果とは

 本作では主人公ハン・ユジンは二人一役で描かれます。チケットサイトの登場人物紹介ページでは、ハン・ユジン役が6人いるので、一見「まさか6人で回すの?」とおののきますが、背景が赤と青に分かれている点がミソ。赤背景と青背景のユジンはそれぞれ1人の人物の二つの内面をそれぞれ担ってでてきます。「悪」の声として登場するのが「赤ユジン」、この声におびえつつ導かれるのが「青ユジン」なのですが、ほかの登場人物に見えているのは「青ユジン」だけ(そして最後に・・)という設定です。

 しかし、この作品には、ユジンにとってもう一人重要(そう)な人物が登場します。幼いころ亡くなった兄と瓜二つという理由で、養子にもらわれてきた義兄キム・ヘジン。ヘジンはユジンを信頼や愛情に満ちた「この世界」につなぎとめる存在なようなのですが…。ユジンが2人に分裂しているためか、ヘジンとユジンの関係がいまいちぼんやりしてしまいます。つか、ヘジンが単なるおせっかいな近所の子くらいの重量しかない。本人の内面の葛藤、母・叔母との葛藤、ヘジンとの葛藤と、葛藤がてんこ盛りすぎなのと、青ユジンにとってそれらが抑圧でしかないがために、最初から赤ユジン圧倒的優勢「もう勝負はきまった」感が強い。だからでしょうか、最後に青ユジンが過去の記憶を取り戻し、赤ユジンと一体化した(飲み込まれた?)時には、むしろ己に酔っているだけに見えてしまった。残念。

 韓国の創作ミュージカルには、最初と最後でキャラクターの見え方が変わる(それを俳優の入れ替えで表現する)という演出がよくありますが(『ザ・キャッスル』など)、これは最初と最後で観客から見える登場人物の性格が大きく変貌してしまっており、またその過程が納得のいくものであるからこそ面白みを発揮するわけです。そこでは、キャラクターに共感できるかどうかではなく、変化の過程にどのような人間関係や社会背景が描きこまれているか、人物が置かれた文脈の変化がどれほど大きいかが面白さを左右するのではなかろうか、と。その過程を、主人公の内面変化(を示す2ユジンの対話)のみで押し切ろうとする本作は、「あああああ、なんか、みてて恥ずかしい…」となってしまうようなきがするわけでして。もにゃもにゃ。

原作小説を攻めるべきかもしれない

 厨二?と叫んだ私に、ともに見た友人は、とりあえず小説は面白いから読んでみろと繰り返しました。原作小説は1人称で描かれているらしいので、読者はミュージカルとは異なる視点をとることになるのでしょう。少なくともこっぱずかしいきもちになることはないから安心せよとも言われました(むしろいやな気分になるだろうと)。

 でもMDで販売していた原作小説は売り切れ。探してみたら日本語版が出てますね。

さらに「七年の夜」も出てるのね。これ、映画にもなったんですよね。

読んでみて、感想を追記できればと思います。ミュージカルの見え方が変わるのかもしれません。

 

ミュージカル『ヴォイツェック・イン・ザ・ダーク(보이체크 인 더 다크 )』(2023年、韓国、初演)見てきたよー社会批判が闇の中へ・・

ミュージカル『ヴォイツェック・イン・ザ・ダーク(보이체크 인 더 더크 )』は2023年2月7日~4月30日までリンクアートセンターにて上演中。ドイツのゲオルグビューヒナーによる未完の戯曲『ヴォイツェック(Woyzeck)』を再解釈して作られた韓国の創作ミュージカルでございます。作家が「原作の持つ社会批判的なメッセージを同時代に通じるものにしようとした」と言っている本作品。果たしてその意図は果たされたのでしょうか。というわけで、見てきたのはこのキャスト。

ヴォイツェック:カン・ジョンウ

マリー:キム・イフ

カール:ジョ・ヒョヌ

大尉:ジョン・ホジュン

そもそも戯曲『ヴォイツェック(Woyzeck)』とは

Wiki情報によれば、『ヴォイツェック(Woyzeck)』は1835年頃にゲオルグビューヒナーによって執筆された戯曲で、実際に1821年にライプチヒでおこった軍人による情婦殺人事件をもとに、下級軍人が情婦を刺殺する場面を描いた断片的な草稿なのだとか。彼の死後、編集者のフランツォースがこれを解読、作品集として日の目を見たということです。

戯曲の上演も盛んで、また何度も映画化されているのが『ヴォイツェック』。2003年にはロバート・ウィルソンとトム・ウェイツによる「オペラ劇」が日本で初演されている様子です(記事)。さらに2011年には、福島の事故処理にあたる労働者とヴォイツェックを重ねる『WOYZECK version FUKUSHIMA』(YouTube)が制作されたり、2013年に白石晃さんによって『音楽劇 ヴォイツェック』が上演されたりもしています。では、韓国の制作スタッフたちはこの物語をいかなるミュージカルに仕立て上げたのでしょうか??期待は高まるじゃないですか。

が、劇場はガラッガラ・・でした!なんてこったい。これから見る人は当日券で大丈夫そうですよ・・。

豪華創作陣とキャストなんだけど!

本作品の制作陣とキャストはめちゃ豪華。そもそも音楽が『ブルーレイン』や『ルードウィック』のホ・スヒョン。演出は『天使について』『海賊』『愛の不時着』を手掛けたパク・ジヘ・・。日本でも上演され、人気を得た韓国ミュージカルの制作陣が参加しておられます。作家は福島原発事故後の失われた日常への郷愁を描く演劇『明日海へ』や、本年1月まで上演されていた『青い灰色の夜』のパク・ユネ。このメンバー、作品歴を聞くだけで、韓ミュオタなら期待は膨らむはず。

そして確かに、音楽と演出はカッコよかった。俳優さんたちの熱演にも心ゆさぶられましたとも。というか、それゆえなんとか90分を耐え抜けたのではなかろうかと。トイレを我慢しているわけでもないのに90分が長いなんて。音楽が良くて、舞台もうまくまとまっているにもかかわらず、長く感じるとはこれいかに。

批判する「社会」はどこに

ミュージカルの開幕前に書かれた「文学ニュース」の記事タイトルが「貧しい兵士とキャバレー歌手の悲劇的な愛の物語」(記事)なのですが。まさに本作品の焦点はここにあり、という内容でした。悲劇的愛ももちろんなのですが、「貧しさ」はめちゃめちゃフォーカスされていて、とりあえず貧乏・ダメ・ゼッタイ、みたいなイメージが脳内でぐるぐるする。

 飲み屋で歌うマリーに花一本遅れない貧しいヴォイツェックが、種を手に入れ花を育てようとするとか、二人の間に生まれた子どもの病院代を稼ぐためにヴォイツェックは山へ芝刈りに・・じゃなく、見るからに怪しいマッドサイエンティスト的医者の生体実験に協力することにし、妻となったマリーは再び飲み屋で歌を歌うことを選択するとか。貧しさエピソード祭りが繰り広げられます。

 とりあえず貧乏によって不幸のどん底にある二人なのですが、底にいる割には地に足がついていなくて、ふわふわしているところがある。それを純粋さといわれてロマンスの根拠にされても、どこか納得がいきません。帰る途中「貧乏なカップルは子どもを作ったらだめだと思った」みたいな感想を友達と交わしている方がいらっしゃいましたが、ほんまそれな!韓国ますます少子化進んじゃうよ(その結論でいいのか問題)。てかここが同時代に通じる社会批評なのか?多分違うだろ、ともやもやしたのでございます。こうした感想に突き当たってしまうのは、ヴォイツェックのマリーへの不信の理由が、酒場で歌うことを選択したからと表現されていて、歌=身を売るコミ?大尉からのオファーは、コール?みたいな当たりがぼやかされているからでしょうか。お金ないならみんなで働かなきゃだろ感がどうしてもぬぐえない。

 おそらく、本来は、こうしたふわふわを凌駕するものとして、ヴォイツェックの狂気が描かれるべきなのかもしれません。しかし本作品では、ヴォイツェックの狂気は、「実験の結果」で、いまいち時代の抑圧や軍隊内部での暴力とのつながりが(これまたぼんやりとしか)感じられなかった。

 あんまり説明しすぎたらそれも作品のスピード感を損なうし、トリガーになりそうな要素ばっかりになってもさらに見る方がしんどいだろうという配慮があるのだとは思いますが。批判すべき社会がどこにあるのか、「いくら目を開けても、世界は闇の中」のキャッチコピー通り、世界(社会)はどこにも見えてこなかったのです。

 でもまあ観客は、俳優さんたちの熱量で、最後みんな鼻水すすっちゃうんですけどね(ものすごい力業やで)。