韓国ミュージカル☆ライフ

韓国ミュージカルを楽しみつくすブログ

ミュージカル「タイタニック(TITANIC)」(韓国版・2017‐8年)見て来たよ(1)ー舞台セットの向こうにタイタニックが見える!

ミュージカル「タイタニック」が2017年11月8日から2018年2月11日までシャーロッテシアターにて上演中でございます。一人あたり最大5役を演じる(と、プログラムブックに書かれている)本作品。存在感ある「スター」を中心に配置される大型ミュージカルが得意な韓国ミュージカル界にあって、無名の人々の生き様と、彼らが集まることで生まれる「社会」を描く群像劇のできはいかに?とおもわれましたが。マルチ・ロールとすることで、その匿名性は高まり、それぞれの役割においてタイタニックの中の社会が形成されている様子がうまく描かれておりました。コーラス部分も圧倒的な感動大作。公演期間も残りわずかとなってまいりましたが、観劇して損はございません!見て来たキャストはこちら。

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(み、見にくい・・以下、ダブルキャストの配役のみ以下)

トーマス・アンドリュース(設計者):ソ・ギョンス

フレデリック・パレット(ボイラー係):チョ・ソンユン

シンプルだけど空間を最大限に使った演出

今回の演出は初演(1997年)演出のグレン・ウォルフォードでも、2015年日本版でも演出をつとめたトム・サザーランドでもない、エリック・シェーファーによる新演出。新版での韓国初演とあいなりました。エリック・シェーファーは、本公演の制作会社ODカンパニーと、ミュージカル「スウィニートッド」でも組んだ間柄。ここにはODの野望と着実な準備が見え隠れする。

というのも、今回の演出版でODカンパニーは韓国上演権のみならず、ブロードウェイでの上演権もゲット。2018、9年にブロードウェイで上演をおこない、トニー賞でのベストリバイバル賞を狙うのだそうな。韓国ミュージカル制作会社の野望に満ちたチャレンジングな動きが背景にあるのが本作品なのです。そのため、ODの本気が見える舞台とあいなりました。

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(舞台の様子は、タイタニックのハイライト映像からも確認できます)

本作品では、舞台セットも新たに、タイタニックの「上下構造」がより明確になるよう作りこまれています。シャーロッテならではのボックス席方向に伸びた通路や、舞台中央を錯綜する通路は、時に乗船用の階段、時に船の甲板、そして時にパーティー会場の大階段となるのです。俳優さんたちがそこで演技をすることによって、観客には「む、向こうに海が見える!」と白目でうならせる効果を持つ。絶えず行き交う人々は、出演者の数以上に、タイタニックに乗り組んだ数千名の人々の息遣いをかんじさせてくれるのです。また、タイタニック沈没のシーンは、映画のようにCG使いまくりで描くわけにはいかない舞台上。設計士アンドリュースが、自らひいた図面をみて涙しつつこれから起こる残劇をかたりつくしたあと、静けさと鎮魂のシーンへとうつっていく演出は秀逸でした。パニックを実際に描くのではなく、観客の想像にゆだねることで、ラストシーンが胸に詰まる。またここにも、高さをつかった演出が生きおりました。

映画のようにメインのカップル・主人公にフォーカスした物語ではありませんが、それぞれの登場人物の息遣いが感じられる、素敵な作品でございましたよ! 

(つづく)

 

ミュージカル「ポーの一族」(宝塚花組版・2018年)見て来たよーこの世のものとは思えぬ美しさ

少女マンガの金字塔、マンガ史の伝説、悲しきバンパネラの美しき物語。「ポーの一族」が華麗なるミュージカルとなって、宝塚大劇場にて上演中でございます(宝塚大劇場2018年1月1日~2月5日、東京宝塚劇場2月16日~3月25日)。

久々の記事が「ポー」は「ポー」でも、韓国ミュージカル「エドガー・アラン・ポー」ではなく宝塚の「ポーの一族」か!とお思いの方もいらっしゃるやもしれませんが。しかしこちらも書かずにはおられない圧倒的魅力。超チケット難の公演ではございますが、強力にプッシュしたい。あらゆる手を尽くしてみておくべき舞台といえましょう。もう、言い切っておきます。いきなり今年の個人的見てよかった公演大賞候補作!(いいのか?)。

エドガー・ポーツネル:明日海りお

シーラ・ポーツネル男爵夫人:仙名彩世

アラン・トワイライト:柚香光

明日海りおさんのエドガーに魂を持ってかれるよ!

すでに新聞記事等で取り上げられていた、トップスター明日海りおさんのエドガー・シンクロ率ですが。「動いたらどうなの?」と気をもんでいた原作ファンは多いはず。しかし心配めされるな。動いたらもっとすごいんです!と叫びたくなるすばらしさ。原作をご存じの方には自明のことなので、アレですが。彼は少年のまま時をとめてしまった吸血鬼。体が成長しないまま内面のみが老成し、あるいみ神がかっている。そのため、立ち姿、瞳にうかぶ憂いの色、そのすべてが「この世のものにあらず」オーラで満たされていなければならない。もうこの時点で生身の人間には無理な役といえましょう。

しかし二幕後半、エドガーがあらためて自らの運命を受け入れ、アランを一族に引き入れようとする時。そのたたずまいは間違いなく「この世のもの」ではありませんでした。もちろん、全編を通して明日海さんにエドガーの魂が降臨してるのかと思わされる「入り込み度」で、ん?あそこにいるのはなに?神?妖精?あ、バンパネラね、という感じだったのですが。アランとエドガーのツーショット、その浮遊感がスパークした瞬間、たぶん大劇場にいた2550人(席数)は異次元をみたと思われます。まじ戻ってこれないかとおもった。あぶないあぶない。

宝塚ワールドの新展開?

さて、「ポーの一族」の脚本・演出を担当されたのは小池修一郎先生。この作品自体、先生が宝塚入団前から上演してみたいと思っていたという前口上がつく、思い入れのかたまり。しかし、プログラムブックの言葉でもふれられていたように、「ポーの一族」は成長しない少年主人公、バンパネラというダークな設定を含みこんだ物語。そしてそれこそが原作の魅力の核にある。こうした原作の性格は「美しい男性と女性の愛の物語」を描くことをその世界の中心に据える宝塚の世界観とすり合わせるのがなかなかに困難で、すぐに上演にこぎつけるということはかなわなかったのだそう。

その後、死を描く「エリザベート」、少年・青年マンガ原作の作品などが上演されはじめ、宝塚の世界観は拡張していきました。この広がりを経てこそ「ポーの一族」も可能になった、ということらしいのですが。今回観劇して、その異次元感に魂をさらわれつつも、「ポーの一族」によって今後宝塚の世界はさらに広がるのではかろうか、とおもわされもしました。

というのも、今回の配役。トップ男役の明日海さんとトップ娘役の仙名さんの間には、エドガーのシーラに対するほのかな憧れ、という点において恋愛的なモノがうっすらと設定されてはおりますが、それは全く中心にはない。仙名さん演じるシーラは、最愛の夫フランクとの強い絆で結ばれている。この二人をめぐる物語のラストシーンは、胸が締め付けられるおもいにかられます。また、エドガーの妹メリー・ベルとアランの淡い恋なども登場するのですが、やはりこれも物語における主たる関係性ではない。

そう、異性愛ではなく、この物語においてもっとも重要な関係は、人々から迫害される「一族」の絆と、エドガーとアランの運命を共にする誓いにほかならない。異性愛・恋愛の物語がトップのペアによって演じられないというこの大胆さ。最後のシーンを飾るのも、ベルばらの時にアンドレとオスカルを乗せたクレーン(?)に乗るのも、異性愛に設定されたカップルではないのです!(では誰がって?それはもちろん!)

不勉強故に、これまでにもこうした「型」が宝塚において描かれたことがあったのかどうかはわからないのですが。これって、たまに話題作を見る程度の私のようなものの宝塚歌劇のイメージからすると、レアケース、という気がするのでございます。

もし、今回異性愛をこえた絆を描くことへと、宝塚歌劇が一歩踏み出したのだとすれば(いや、二三歩目なのかもしれないが)。「ポーの一族」は何重にも、伝説の作品となるに違いないのでございます。

あと、花組メンバーの美しさ、柚香光さんの殺傷力も半端ございませんので、御覚悟ください。あー、当日券並ぶしかないかなー。

ミュージカル「ソピョンジェ(西便制・서편제)」(2017年版)観覧後記(2)-ソリに込められた想いに号泣準備を

みなさま、韓国創作ミュージカル「西便制(ソピョンジェ・서편제」はもう御覧になられましたでしょうか?2017年8月30日に開幕、11月5日まで、狎鴎亭BBCHシアターにて上されておりました。広い年齢層の観客が特徴のこのミュージカル、となりでおじいちゃんが号泣してても気にしないように!(ものすごく気になりますが、まあ自分も泣いてるからいいとしよう)。

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(BBCHの入口ホールでは3人のソンファお迎え。「世間は犠牲だといい、彼女は人生だと言った」・・泣けます)

心情を語る二つの音

本作品の見どころの一つは、通常のミュージカルソング(西洋音楽による旋律)に、微妙に伝統的なパンソリの節が絡んだり、あるいはどちらかの旋律がメインをはりながら各キャラクターの心情が歌われるところにあります。伝統芸能道まっしぐらのパパ、ユ・ボンがその恨(ハン)について西洋音楽で心情を歌うシーンでは、なんだか不思議な感覚が襲ってきたりもするのですが。しかし、ソンファのパートでは、主に言葉では説明しきれないような感情、慟哭や悟りのようなものは韓国的な唱として表現されます。西洋音楽的な表現を用いるパートでも、唱に近いような要素が感じられ、彼女の人生、そのすべてにソリが染みわたっているのが伝わってくる。韓国の伝統音楽を西洋音楽に乗せて説明する、という、このミュージカルのあやうい構造が、破たんせずに成り立っているのがすごいところだ!とうなってしまう。そしてそれは、俳優さんたちの圧倒的歌唱力によっているのです。

イ・ジャランの哭がささる

最初に見たソンファ、イ・ジャランさんはソウル大の国楽大学院に在籍中で、重要無形文化財5号に指定されたパンソリの歌い手として修練を積み、国楽人としてのキャリアをみとめられた存在でもあるとのこと。ソンファとして不足なしな俳優さんでした。確かに、パンソリ・パートが、まさにすすり泣くような震えを含んだ声として歌われ、また西洋的な旋律の中にも微妙にこの音が混じることによって、物語の厚みがはんぱなくなっております。

特に、父の死のシーンでは、ソンファの生命そのものをかけたような慟哭がソリとなって旋律をなし、彼女の芸がある高みに達したことを実感することになる。まさに彼女は恨(ハン)の本質をつかんでいくのですが。これが実に切ない。恨(ハン)の国ではない生まれにもかかわらず、そこで東アジア土着の魂を揺さぶられまくるといいましょうか・・。もう、となりのおじいちゃんと一緒に、鼻水たらして泣くしかないのです。このあたりからもう、号泣ポイントの連続で、酸欠になりました。ああ、この感想をもっと早くお伝えしたかった・・んですけどね。

というわけで、感想はまだ続く・・かも。