韓国ミュージカル☆ライフ

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ミュージカル「フランケンシュタイン」(2017年・日本キャスト版)感想しつこく続き-役替わりの面白さ

韓国の創作ミュージカル「フランケンシュタイン」とうとう福岡上陸!ですね。巨大なクマがお迎えしているようで。相当な「食べで」があるとおもわれる。・・ということで、2017年1月8日に日生劇場(東京)で幕をあけたミュージカル「フランケンシュタイン」、2017年2月2日~5日に関西、10日~12日に福岡、17日、18日に名古屋で千秋楽を迎えるスケジュールで絶賛上演中なのでございます。ああ、もうすぐおわっちゃうよ!こうなったらしつこく言っておきますが、東宝ホリプロさん、どうかどうかDVDとCDを出してください!

さて、しつこく感想をかきつらねております当ブログ。今回はミュージカル「フランケンシュタイン」の特徴でもある1幕と2幕での役替わり効果についてつらつら考えてみたいと思います。

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(韓国版よりもいっそうぶっ飛び度アップ・・2幕の闘技場の人々)

役替わりの面白さと効果

ミュージカル「フランケンシュタイン」の見どころの一つに、1幕と2幕で同じ俳優さんが違うキャラクターになって登場する、という部分があります。ビクター・フランケンシュタイン博士は、賭け格闘技場の亭主ジャックに。ビクターの姉エレンは、ジャックの妻エヴァに、そしてビクターの妻となるジュリアは闘技場の下女カトリーヌに変身。ただ、1幕終わりに登場する怪物だけが、怪物としてこの場に現れます。もちろん、怪物はすでに、「アンリから変身」しているキャラだ、ということもできるのですが。

闘技場のシーンでの役替わりは、俳優さんたちの「はじけ具合」を楽しむことができる、エンターテインメント性にあふれた演出であり、また1人の人物の両面性・多面性を描き出す手法としても機能するものでもあります。ストーリー上このシーンでは、ドロドロした人間の欲望(怪物でなくても嫌になりそうな・・)がこれでもか、と描かれはするのですが、どこかそれがそれが滑稽にもみえるバランスがとられているのです。これが別の俳優さんによるものだったら、「闘技場」の世界は、「ビクターによる生命創造が行われる」世界と完全に分離してしまい、もっと残酷にしか見えなかったかも・・と思わされる。おなじ俳優さんが二つの役を演じることで、この二つの世界はどこかでつながりを保持されることになるのです。

関係性の読み替え

さて、この二つの世界がある物事の二面性をあらわしていると考えることができる演出ですが、これってそれぞれのキャラクターの深みを出すと同時に、「1幕での関係性」をも多面的に眺めさせる仕掛けになってる・・と考えてみると面白いかも!と思い至りました。ええ、まったくの妄想ですよ。

まず、ビクターとエレンは献身的な姉と弟という関係。姉弟とは、親密な男女の関係の一つではありますが、もちろんここに性的な関係はない。これが1幕。しかし2幕でそれは「夫婦」という性愛関係をふくんだ男女の親密な関係に読み替えられている・・というように考えてみるわけです。

たとえば、柿澤勇人さんのジャックがエヴァと対等な夫婦関係(?)を連想させるのに対し、中川晃教さんのジャックがエヴァの尻に敷かれまくりであることから、1幕のビクターとエレンの関係性を再解釈してみると。カッキービクターに対し、エレンはある意味対等な位置から「弟を心配」している姉であったといえ、他方アッキービクターとエレンは、エレンが腫れ物に触るようにやや恐れを持って、「弟を心配」していたのかもしれない。この力関係が2幕で逆転したからこそ、あんな夫婦関係として描かれたのかもしれない、と。ええ、まったくの妄想ですよ。

あるいは、ビクター・エレン姉弟と叔父のステファンは彼らの保護者であるわけですが、2幕ではステファンは闘技場に金を貸すフェルナンドになり、彼らの生活の場を奪おうとする「敵」となります。つまり、保護者であるということは、生殺与奪の権力を握るものであるという読み替えと考えられるのかな、と。また、1幕で姉弟をゆびさし白眼視していた人々は、2幕で彼らに「見世物」にされたりしている・・。

こんな風に考えてみると、1幕で描かれた人々の関係性の中に潜んでいる性的な要素や負の可能性、関係性のなかに潜む力関係が見えてきたりして面白い。いや、だから妄想なんですけどね。このように、1幕2幕の役替わりの意味を考えるだけでご飯3杯は食べられそうな楽しさなのです。もちろん、「フランケンシュタイン」の世界の不気味さももまた、より一層強く感じられもするのですが。

・・でも、ルンゲはイゴールになっても、ビクター坊ちゃん/ジャックだんなさまの愛をほしがるキャラなあたり、なんかほっこりしたりしてね。

ミュージカル「フランケンシュタイン」(2017年・日本版)感想続き-二人のビクターどっちがお好き?

韓国の創作ミュージカル「フランケンシュタイン」日本キャスト版が2017年1月8日に日生劇場(東京)で開幕後、2017年2月2日~5日に関西、10日~12日に福岡、17日、18日に名古屋で千秋楽を迎えるスケジュールで絶賛上演中!ああ、見に行きたい。東宝ホリプロさん、どうかどうかDVDとCDを出してください(しつこく言いますよ!)。さて、今回はミュージカル「フランケンシュタイン」の主人公(タイトルロール?)ビクター・フランケンシュタイン博士の日本版演出・解釈の面白さに迫ってみたいと思います(迫れるのか?)。以下諸々ネタバレ要素がありますので、未見のかたはご注意くださいませ!

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(こちらを「フランケンシュタイン」だと思う人は減少したのだろうか・・)

二人のビクター

ダブルキャストでビクター役を演じられたのは中川晃教さんと柿澤勇人さん。この二人の役作りの違いがかなりくっきりしていて、キャスト違い観劇の楽しみが堪能できました。あくまでも個人的感想なのですが、カッキー(柿澤勇人さん)ビクターはあくまで両家のぼんぼんで、身近な人の死を受け入れられない子どもな部分を残した人物であり、「認識のあまさ」ゆえに自ら招いたともいえる悲劇が繰り広げられ、それによって結果として「成長」するようなキャラに見えました。一方、アッキー(中川晃教さん)ビクターはより業の深いビクターといいましょうか。呪われた運命を覆そうとしてもがきつつ、運命に飲み込まれ、その絶望感を抱いてクライマックスを迎えるように思えた。なので、最後のシーンの「狂気度」はアッキーのほうがいきおい高くなるわけで。カッキーが、何もかもを失ってしまうほどに「子ども」であった、なにもわかっていなかった自分にむかってその絶望を叫んでいるかのようだったのに対し、アッキーは天(神)に向かって呪詛を吐くような「名乗り(おれーはー、ふらーんけーんしゅたーいん、の部分)」であったように感じました。どっちのビクターも、「よしよし」して(あるいは「ぎゅっと抱きしめて」)あげたくなること間違いなしです!

このキャラ付けの差異はかなり演出上も意識してつくりこまれていたのか、それぞれの俳優さんによって各シーンの立ち位置がちがったり、身振り等にも変化がつけられておりました。たとえば、1幕、戦地から戻ってのパーティー会場(?)のシーンで、ビクターは姉のエレンや幼馴染のジュリアに再会するのですが。アッキービクターはジュリアが手を伸ばすのに思わず答えようとする自分を戒めるためか、わざと大きく払いのけたりする。自分に近づくとジュリアまで呪われてしまうのではないか、という「自分呪われてる認識度」の初期設定の高さがうかがわれる。一方カッキービクターは、するするっと人々の間をぬけて鍵を取りに行き、パーティー会場を(どちらかといえば)馬鹿にした様子で抜け出そうとする。こんなくだらない集まりに興味はないんだよ、という「愛されていること前提」なわがままっこ風のオーラでの「ガン無視」。エレンやジュリアとの関係性のもちかた、立ち位置(方向)、鍵の持ち方一つとっても、それぞれのキャラ「らしい」風情がでておりました。

「僕はなぜ?」と「後悔」が際立つ

韓国版「フランケンシュタイン」を見たときは、ビクターのキメの一曲はやっぱ「偉大な生命創造の歴史が始まる(위대한 생명창조의 역사가 시작된다)」だよな、という印象が強かった。もちろん、日本版の「生命創造」もぞくぞくするくらいカッコいいのですが。しかし今回あらためて「僕はなぜ?」と「後悔」があるが故に一層「生命創造」が輝くのだな・・と、この二曲の重要性に気づきました(遅い・・)。

特にアッキーのビクター解釈で「呪われた存在としての自分」という認識と、「生命を創造したいというどうしようもない欲望」(カッキービクターよりも、アッキービクターのほうがこの衝動が根源的なように思えました。業が深い・・。)が強調されたためか、「君の夢の中で」の前ふりとなる「僕はなぜ?나는 왜」からの「生命創造」までのビクターの葛藤の重みがよく理解できました。韓国版だと、その間にある「君の夢の中で」のインパクトが超強烈で、そこで魂が抜けてどっかいっちゃってたので(日本版はうまく前後と調和しているといいましょうか)、いまいちそこのつながりがはっきり見えていなかった模様。

「僕はなぜ」で、ビクターは「生命創造の欲望」と戦っているわけですが。「そんな欲望をもった己を恥じる」心と、それでも抑えきれない何かを抑え込もうとするシーンがここだとしたら。「生命創造」の狂気をぎりぎり抑え込んだビクターの姿が描かれるが故に、あとの「生命創造」での自らの欲望を解放するしかないと悟った彼の狂気が際立ち、胸にせまってくるのではないでしょうか。

そして、ここで自らの欲望を解放してしまったことで、彼の周囲の人すべてを不幸にする運命の輪がまわりはじめるわけですが。ビクターがこれに気づき、すべてを自らの業として(絶望の中で)受け入れざるをえなくなったのが、二幕終盤の「後悔」。このように見てみると、今回日本版の「フランケンシュタイン」はビクターメインの歌唱パートのつながり、つまりビクターの感情の流れがかなり見えやすい作りとなっておりました。韓国版よりも、観客として物語を見たとき、ビクターの視点でそれを追っている時間が長かったような気がする。では改めて、韓国版の特徴とはなんだったのか・・。と、妄想はとどまるところを知らないのでありました。

とりあえず、DVD出してください!(しつこいよ!)。

ミュージカル「フランケンシュタイン」(2017年・日本キャスト)見て来たよ-カトリーヌの「やりきれなさ」度アップ!が切ない

ミュージカル「フランケンシュタイン」日本キャスト・初演版を見てまいりました。2017年1月8日に日生劇場(東京)にて幕を開け、2017年2月2日~5日に関西(短い!)、10日~12日に福岡(やっぱり短い!)、17日、18日に名古屋(超みじかすぎるでしょう!)で千秋楽を迎えます。私はと言えば、関西上陸を今か今かと熱望しておりましたが、勢いあまって実は東京にも出没しちゃったりもしてしまいました。いまだ興奮さめやぬ日々。もえる想いが煮詰まって焦げ付いております。ああ東宝ホリプロ様、なにとぞDVD、いやせめてCD出してください!

ということで、しばらく、ミュージカル「フランケンシュタイン」の魅力について、熱(くるし)く語っていきたいと思います。この情熱(妄想?)をぶつけさせてくださいー。以下もろもろネタバレもございますので、未見のかたはご注意ください。

ミュージカル「フランケンシュタイン」

(福岡に行きたい・・。)

ジュリア/カトリーヌの存在感アップ

さて、日本版フランケンシュタインで印象的だったことの一つが、女性キャラ、中でもジュリア/カトリーヌの存在感アップ。韓国版(の再演)ではジュリアは結婚すらしないまま死んでしまいますからね・・。ヒドイ。しかし日本版では、ジュリアとビクターの心のやり取りが(大人になってからの関係においても)描かれることで、ビクターが「大切な人を失っていく」流れが際立ったのでは、と感じました。ジュリアが怪物に殺されてしまうシーンからの「後悔」が生きたといいましょうか。韓国版では、「いや、君がもっと大切にしておいてあげたらよかったのでは。そもそも。」というツッコミをいれてしまいそうになったからね。

また、ジュリアが彼の姉エレンと共にビクターを支え「人を信じる」ことを貫くキャラとしてくっきり描かれたからでしょうか、おなじく音月桂さんが演じる、闘技場の下女カトリーヌの、「人が信じられない」キャラも明確になったように思います。役替わりの効果をとても強く感じられた。

その結果、カトリーヌのキャラがより(個人的に)好みなキャラになったな・・と、ニンマリ。韓国版のカトリーヌは、原曲のキーが高いこともあるからでしょうか。彼女の歌う「生きるということは(산다는 것)」弱者としての悲しみがより強く出ていたような気がするのです。彼女の悲鳴のように聞こえる曲と言いましょうか。これはこれで、胸に刺さる。(アン・シハさんの「生きるということは」の映像は以下)。

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他方、音月カトリーヌはややキーを落としての歌唱であり、カトリーヌのしたたかさ、欲望、生きることへの執着のようなものを強調する音月さんの演技に曲がすごくマッチしていた気がします。カトリーヌが捨てきれない生への執着。死がすぐそこにあるからこそ湧き出てくる生きることへの渇望が、人間の業を感じさせやるせなくなるのです。そう、カトリーヌはあくまで怪物が出会った「人間」の一人なんだよね!と実感できたのでした。

「俺は怪物」で彼を抱く夢の中の人物とは?

さて、このことと関連して気になった点。2幕、闘技場でぼろぼろになった怪物がその復讐心の目覚めを歌う曲「俺は怪物」を涙ながらに聞いていておりますと。この曲の最後のパート、怪物が夢の続きを見たいと切望する「誰かの胸に抱かれる夢」の部分がひっかかりました。うむ?これ、日本版歌詞では(記憶があいまいなのですが)女性をイメージさせる歌詞が含まれていませんでした?しかし韓国版を見たときには、私はむしろ1幕の「君の夢の中で」とのリンクを感じ、「怪物が生まれた瞬間のビクターの記憶」なのかな?と思った記憶が。よし、確かめてみよう。ということで、ハン・チサン怪物召喚!びびでばびでぶー。

(ハン・チサン怪物版の「俺は怪物」をどうぞ!最後の部分です)

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うむ。韓国版「俺は怪物」では、怪物が抱かれたのは「포근한 가슴あたたかな胸」となっていますね。性別は不明といえましょう。

日本版歌詞が(私の記憶違いではなく)女性の胸に抱かれたことを暗示しているのだとしたら。ここは「カトリーヌ」との「そこには・・」(クマ・オイシーのあたり)でのやり取りを指すと推測されるではありませんか。つまり怪物を抱くのはカトリーヌ。怪物はあたたかな母性を一瞬手に入れたかに感じたのですが、それはあくまで夢にすぎず、結局「人間としてのカトリーヌ」は夢を見続けさせてくれる存在ではなかった、というふうにお話がつながるのかな、と。このように考えると、カトリーヌの存在感が半端ないですね!日本版。

歌詞が勘違いだったらこの仮説は棄却ですが・・。確認したいのでDVDだしてください、東宝ホリプロさん(しつこい)。