韓国ミュージカル☆ライフ

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ミュージカル「わたしは慎吾」鑑賞記-それは、身体にできることを追求するミュージカルだった・・・と、いいます。

あけましておめでとうございます。

新年早々ではございますが、昨年度書き残した感想からスタート・・。ミュージカル「わたしは慎吾」見てまいりましたー、報告でございます。横浜でプレビュー公演(2016年12月2日・3日)が行われたあと、浜松(12月9日)、富山(12月15日)、京都(12月23日‐25日)、をへて東京で2017年1月8日‐26日まで新国立劇場にて上演される本作品。楳図かずおの名作を、フィリップ・ドゥクフレが演出するという話題作。

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(三角が・・・まるに!)

真鈴=高畑充希

悟=門脇麦

ロビン=小関祐太

しずか=大原櫻子

慎吾=成河

楳図かずおの描く「子どもたちの閉じた世界」

さて本作品、楳図かずお先生の筆圧(?)高いあの描線ひしめき合うコマをいかにして舞台上に出現させるのか。気になるところでございました。

2.5次元に分類されるのやもしれない本作品(されないのかな)、すでに原作が4次元の彼方へとぶっとんでいるともいえるので、むしろ3.5次元?などと意味なく悩んでしまう。2.5であれ3.5であれ、結論からもうしますと、子どもたちの論理でなりたっている楳図ワールドが舞台上にうまく表現されておりました。それは、奇妙なステップを挟む動き、説明されない怪しげな大人(日本人の無意識ブラザーズ、と勝手に命名)たちの行動、背景に映し出される様々な角度から撮影され、加工された身体の映像が、「異次元感」を盛り上げていきます。

逆に、最初にこの「異次元感」に乗り遅れてしまうと、「え、どういうこと、どういうこと、いまのなに?あれだれ?」と、取り残され感に襲われるやもしれません。ですので、見始めるときには「考えるな、感じろ」というブルースリーの言葉を胸においておく必要があるでしょう。舞台上に繰り広げられる場面それ自体を「感じる」必要があるのではないかと。

ですので、この作品は歌を中心として構成されるタイプのミュージカルというよりは、むしろ(モダンダンスや身体の動きとメディアアートの饗宴を楽しむ、現代アートを舞台化したような作品なのだと理解したい。

「機械」をどう表現するのか?

さて、本作は子どもの世界を描き出すと同時に、機械が意思を持つというとっても「イマドキ」なテーマを含んでおります。私が作品を観劇した京都のロームシアターには蔦屋書店が併設されているのですが、当時、京都府図書館と蔦屋書店岡崎店が共同でおこなった選書フェア「本のプロたちがご案内『わたしは真悟』をもっと楽しむ24冊!」が開催されておりました。配布されていた冊子では、『ロボットの文化史』をはじめ、アシモフの『われはロボット』やロバート・A・ハイラインの『月は無慈悲な夜の女王』などの正当派SFロボットものが並んでおります。もちろん、大島弓子の『ロングロングケーキ』なども紹介されており「ある時代の終わり」への感性が示されてもいるのですが。どちらかといえば、非生命体が生命たりえるか?を問う作品が多くとりあげられておりました。「わたしは真悟」が発表された1980年代には、いまだSFでしかなかった「機械」に魂が宿るという物語。現在、「自己成長していく人工知能」の問題は現実のものとして議論されつつありますからね。

舞台では成河さんが演じる「真悟の精神」と、黒子さんたちが動かす「機械としての真悟(ロボットアーム)」が「それぞれ動きを交えて」登場し、物語をけん引します。ここも大きな本作品の見どころ。魅力にほかなりません。

この「機械」を表現するために用いられる過剰ともいえる身体表現、という作りは、それが機械であれ生身の人間であれ、魂にとって「身体」がいかに重要なのか、ということをメッセージしてくるようでした。

成河さん演じる「真悟」の精神は時にネットワークの中を駆け巡り(舞台上のモニターに映し出されたりして)、「機械」の体を離れていきます。しかし、最後の最後まで「真悟」として残るのは、ネットワークの中に形成されていった「彼」ではなく、悟にメッセージを書くのがやっとだった「機械」にほかならないのですから。

 

・・・とまあ、妄想は広がるのですが。ともあれこの作品は「子どもの世界」「魂をもった機械」という二つのテーマを深読みしつつ楽しめる、二度おいしい作品だといえそうです。

 

(でも、どこかのタイミングで原作はよんだほうがいい・・気がする)

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