韓国ミュージカル☆ライフ

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ミュージカル「マリーアントワネット」韓国版は、もっと女子力多めでお願いしたい。

Kミュージカルシネマ「マリーアントワネット마리 앙투아네트」を見てまいりました。今回は、このミュージカル作品それ自体について語ってみたい。結論を先に申しますと「もっと女子力多めで!」。ここでいう「女子力」とは、恋愛偏差値やファッションセンス、お肌の管理具合をさすのではありません。ぶっちゃけ「女子力」という言葉は適切ではないかもしれませんが(ではなぜ使う)。言うなれば、「女なめたらあかんぜよ!」というほうの「力」をこのように表現してみたわけです。

 

そもそもこの作品は、東宝が『エリザベート』や『モーツアルト』でヒットを飛ばすミヒャエル・クンツェ&シルヴェスター・リーヴァイに依頼して制作したもの。原作は渋いところで遠藤周作の『王妃マリーアントワネット』です。シュテファン・ツワイクとかじゃないところが、日本発の意気込みを感じるではありませんか。

王妃マリー・アントワネット〈上〉 (新潮文庫)

王妃マリー・アントワネット〈上〉 (新潮文庫)

 

 (上下巻あります)。

日本版とはかなり異なる韓国版。キャスト数も劇的に削減され、少数精鋭部隊投入です。Kミュージカルシネマの上映会場でもらったチラシに掲載された韓国版のあらすじはこんなかんじ。

 

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大きな見出しは「マリー・アントワネットの生涯」となっておりますが、中身を見ると「マリーアントワネット」(王妃である女性)と「マグリット・アルノー」(平民の女性)、二人の女性の出会いと反発・共感の過程を描く作品であることがわかります。さらに踏み込んで、韓国版では二人が異母兄弟であることが明示されてもいます(「ラ・セーヌの星」か!・・ってツッコミの元ネタが古すぎるヨ)。

この二人の視点で物語が進んでいくため、貴族と市民の対立を描く部分でも、どちらかが善でどちらかが悪であるという意味付けがおこなわれないのがミソ。韓国の劇評では、物語で「革命」の意味が失われてしまっている、と評されてもいましたが。しかしこれは、王権と市民革命をめぐる政治の物語ではなく、むしろ女性と社会の「政治」をめぐる物語と考えれば、そのへんはいらないだろう、と思ったり。

 

まずマリーというキャラクターは、フェルゼンという恋人を持ち、優しい夫とかわいい子供たちに恵まれた母であり「女」でもある人。まさに女性誌「VERY」や「STORY」が目指してそうなセレブ妻(いや、まじセレブ)。しかし、自分の行動が意味するところを知らされず、やがてそれを知ることをあきらめてしまった女性。つまり、自分がおかれた立場について社会とのつながりの中で考える、ということをやめてしまった女性なのです。

その一方、マグリットは愛に飢えた自分探し系。自分に与えられた役割(革命における「仕事」)をこなすことで自分の存在意義を確認しようとする、キャリア女性でもある。文字も読めるし、お金のために労働する洗濯女たちとは異なる「意識高い系」とでもいいましょうか。「女でありながら」スパイの「任務」をおおせつかったりもする。しかし彼女もまた(オルレアン公やジャックが象徴する)男社会に利用されている存在に過ぎないのです。あくまで「女のくせに」と言われ、男社会の異物として扱われるしかないのですから。

 

というように見ていくと、なんかもうこれ、今どき女子の問題を象徴しまくっているのでは、と思わずにいられません。さらに、当初マグリットがマリーに反感をもつのは、なんかむかつく、という私怨に近い。社会制度への不満というよりは、マリーだけが幸せ(そう)なことに腹が立つのです。マグリッドは結構不安定な子なので、フェルゼンに「君は愛に飢えているヨネ」みたいに言われると、ちょっと心もっていかれそうになったりして。これって、働く女子の現実あるあるな感じがしてきませんか、え、してこない?・・そうですか。しょんぼり。しかしもう少しおつきあいくださいませ・・。

 

マリーとマグリットやがて二人はお互いの立場を理解し始めます。しかしこの契機となるのは、社会構造の大転換。王政が滅び、マリーは宮殿を追われ、マグリットは市民集団に属することで発言権を得ていくような、自分の立ち位置そのものが地殻変動してこそなのです。それくらいの変化が起こらない限りマリー型・マグリット型女子の交流は不可能というあたりもリアル。

「マリーアントワネット」を、マリーとマグリットが、いやおうなく引き受けさせられてしまう「女子であること」の共通性を認識し、相互に理解を深めていく物語として、ほぼ妄想に近いかんじで読み解いていくと、マグリットの目には権力をほしいままにし、きらきら輝いているように見えていたマリーが、実はなんの力をも持たされていなかったただの女性であることを理解していく過程は、とても意義深いもののように感じるのです。まあ、妄想だけど。

 

こうした視点でみたとき、不満に思うのはマリーがマグリットと異母兄弟であるという設定。マリーがマグリットを信頼し、フェルゼンへの秘密の手紙を預ける理由が「血縁関係だから安心!」に見えてしまうのです。あと、マリーがマグリットの孤独や剥奪感を理解していく過程はもう少し書き込んでほしい。作品には、もっと女性たちはどのような立場におかれていても男性社会において「自分の思い通りに、自分で考えて」生きることが難しいのだというメッセージを大盛りにしていただきたいのであります。韓国ドラマなんかで描かれる強い女子たちのように、「女子力」を強調してほしかった。

そのあたりを強調するならば、最後の楽曲「How Can We Change The World / 우리가 꿈꾸는 정의는 무엇인가(われわれが夢見る正義とは何なのか)」のメッセージは、「女性」という立場を押し付けている社会における「正義」ってなに、誰のもの?と問いただすものとして、もっと強烈なものとして観客に届いたのではないか、と思えてなりません。(ここまでくると、すでに違う話になってそうですが)。

 

2014年版「マリーアントワネット」は年末年始上演という「デートミュージカル」設定だったらしいので、そんなラディカルなもの見せられませんよ、ということもあったろうかと思いますが。

 

と、こうした完全に偏った見方もたのしい「マリーアントワネット」。Kミュージカルシネマはまだ上映もあるみたいですよ。

 

全く言及しませんでしたが、キム・ジュニョンのオルレアン公は超カッコよかった。

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