韓国ミュージカル☆ライフ

韓国ミュージカルを楽しみつくすブログ

演劇『ジョージア・マクブライドの伝説』(2019-20年、韓国キャスト版、初演)見て来たよ!―

演劇『ジョージア・マクブライドの伝説(The legend of Georgia McBride/조지아 맥브라이드의 전설)』(韓国キャスト)が2019年11月27日ー2020年2月16日まで大学路ユニフレックス2館で上演中。演劇とはいえ劇中にはショーに用いられるポップソングが流れ、ライブ感あふれる作品となっておりました。異姓装やジェンダー越境の問題を笑いに解消してしまうだけだとちょっと嫌かも・・と不安になりつつ見始めたのですが、ジェンダー的なアイデンティティの複数性を丁寧に描いていて好印象!見て来たキャストはこちら。

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 ケイシー:パク・ウンソク

トレーシー:ペク・ソックァン

レキシー:ソン・グァンイル

ジョー:ユ・ジュヘ

エディー:キム・スンヨン

ざくっとしたあらすじ

 主人公ケイシーはさっぱり売れない芸人。バーでエルビス・プレスリーの物まねショーをして、一発あてようとするも評判はいまいち。妻のジョーからはお金がないとぐちを言われる日々。ついにモノマネ芸さえも首になったケイシーは、バーのオーナー、エディに泣きつき、バーテンダーとして何とか食いつなごうとしています。妻から妊娠をつげられ、うれしいと同時に、今後の生活への不安がつのるのでした。そんな時、エディのバーにドラァグクイーンのトレーシーとレキシーが訪ねてきます。ドラァグショーでバーを立て直すことになったのです。自分の居場所がどんどんなくなっていくケイシー。ある日、酒に酔って舞台に上がれなくなったレキシーの穴埋めとして、ケイシーは女装してショーを回さなければならなくなりました。なれない女装を渋るケイシー。芸名を急きょ母親の出身地ジョージアと、初恋の相手マクブライドの名前からとった、ジョージア・マクブライドに決定し、トレーシーの励ましのもと、なんとかショーを務めるのでした。以外にもショーは好評をえて、チップもはずんでもらったケイシー。その後もショーにでて、あれよあれよという間に人気者になっていきます。しかし、急に稼ぎの良くなった理由を妻には告げられないでいました。そんなある日、突然楽屋を訪ねて来た妻に、ケイシーがドラァグショーに出ていることがばれてしまいます。ドラァグクイーンとしての仕事を受け入れられない妻。ケイシーは悩みつつも、最後のショーになるかもしれないからと妻を説得し、いつもの衣装をみにつけて舞台にたつことにしました。そして、アコースティックギターで妻へのラブソングを歌います。それを見ていた妻は、ケイシーの思いを理解し彼の生き方を肯定するのでした。めでたしめでたし。

ペルソナとしてのドラァグ

 さて、本作品は前半、男性としてのジェンダーを確立していて、異性愛者だと信じ切っているケイシーが、いやいやながら異性装することになってしまい、その越境のトホホぶりを笑うような作りになっております。パク・ウンソクさんの愛くるしさを差し引いても(これについては申し分なくて、キュンキュンくるわけですが)、そのちょっとした(脚本的な設定の)無神経さが鼻につくかんじがいたしました。なんか、こんな風に笑うのはいかがなものか、的な。しかしですよ。当初、女装が金儲けに使えると有頂天になってはいるけど、それを妻に告げられないケイシーが、ドラァグとして生きていくことでアイデンティティを維持しようとしているトレーシーや、そこに破壊的な何かをぶつけてなんとか自分の輪郭を確かめようとしているパンクなレキシーとの交流することで、彼らをリスペクトするようになり、また舞台で何度もジョージア・マクブライドになることによって、自分にとって女装することが持つ意味を考えていく部分がそれなりに丁寧にかつ説得的に描かれていくので、次第にストーリーに好感がもてるようになりました。そして最後の局面にきて、異性愛者か同性愛者かというセクシュアリティを超えて、自分にとって女装した姿、ジョージア・マクブライドが何であり得るのか、その姿でなくてはならない理由をポジティブな形で導き出すこの物語には、ある姿をとることが誰かにとって必要なことがある、そのペルソナはその人のジェンダーセクシュアリティに関係なく(いや、むすびついていながらも多層的で)切実なものなのだ、と実感させられたのでした。後味めっちゃすっきり!

俳優さんの魅力爆発

  今回ケイシーをパク・ウンソクさんで見たのですが。突然女装してステージに立つことになり、なれないドレスと化粧、そして全く知らないエディット・ピアフの「パダン・パダン」を口パクしろと言われて戸惑う姿が超キュートでした。「ピアフ?しらないよ!」というケイシーに、とりあえず「喉乾いた、スイカ死ぬほどくっとけ(の韓国語、だと思ったんだけど)」っていっとけば何とかなるから!とムチャをいうトレーシーの言葉に笑わされるとともに、ケイシーがめちゃ忠実に曲中ずっとこれを繰り返しているとか、かわいすぎるだろ。

 カン・ヨンソク君で見ても、イ・サンイさんでみてもそれぞれちがったアプローチ、ちがった魅せ方があるとおもわれるケイシー/ジョージア・マクブライド。ドラァグショーのクオリティーも間違いない本作品。ぜひぜひ3人三様の魅力を楽しみたいところです。

 

英語版台本はこちら(米国アマゾンサイトへ飛びます)

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ミュージカル『スリルミー(쓰릴미)』(2019-20年、韓国キャスト)見て来たよ―新演出!舞台に木が生えたスリルミーをフレッシュなメンバーで

韓国キャスト版ミュージカル『スリルミー』が帰ってきた!2017年に10周年記念・伝説の豪華キャスト祭りを終え、刷新のための準備期間という2年間の沈黙に突入していた韓国スリル。2019年12月10日~2020年3月1日まで大学路イエス24ステージ2館(旧デミョン文化工場)にて上演中。沈黙の間に何があったの!と思わざるを得ない新セット・新演出は、現地では賛否両論のどっちといえば否よりらしく、日々演出が変わっているという噂もある状態・・。私が見て来たのは開幕週。以下で今となってはなくなった演出にも言及しているかと思われますが、とりあえず見て来たキャストはこちら。

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私:キム・ヒョンジン

彼:ノ・ユン

※今回は全キャストがスリルミー初体験!

舞台セットがドールハウス(以下すべてがネタバレを含んでおります)

 韓国新演出版『スリルミー』、まず入った瞬間度肝を抜かれること間違いなし。あれ、劇場間違えた?今回もスリルはベガムだっけ?と引きかえしそうになるでしょう。かつてのダークカラーでまとめたシンプルな舞台は消え去り、『私とナターシャと白いロバ』あるいは『アランガ』風の白い舞台が出現しております*1。舞台上にはドールハウス的な白い箱。いくつかの面に窓がつき、上部に登れる階段もある。柱部分には寄り添うように木が生えており、木陰にピアノが(ピアノ1階!)。さらに箱セットの前にはおなじみの机とタイプライター、そして逆側にはトルソーが。トルソー、なんじゃそら!・・と、座席についたほとんどの初見客が思ったに違いない。ツッコミどころ満載すぎる!スリルミーなのにどこかインスタ映えするカフェ風味のセットなのです。

スローなピアノにしてくれ・・なくていいけど

 さて、新演出版は同じ90分の芝居とは思えない「ため」に満ちており、スピード感よりは、余白が多いつくりになっておりました。実際ピアノの演奏スピードも超スロー。現地のミュージカルファンたちに、プレスコール映像を速度を上げて再生してちょうどいい速さと揶揄されるほどなのでございます。また、これまで俳優さんたちの解釈によってそれぞれのキャラクターをいかに作っているのか、想像させるポイントだったシーンが、あっさり通過点になったり、ずらされていたり、はては現在二人が同じ時空間にいるのか曖昧になっていたりしています。

 たとえば冒頭の、二人の再会シーン。彼が私にマッチを持っていないか訪ね、私が彼にそれを差し出すシーンがあります。ここで、彼と私の関係性を読み取るために、観客の視線が集まるのですが。今回、私にマッチ持ってこさせておきながら、彼はそれを無視し、懐から「ライター」を出してたばこに火をつけるのです。「じゃあ、たのむなよ!」とツッコまずにはいられない。おそらくここは、彼がライターをどの様な雰囲気で出すか、それを見た私がどう反応するか、に解釈の力点が移るのだと思われます。演出が導く「彼」と言うキャラクターの中では、彼はあくまで「私」の反応や行動など気にしていないわけですから、この演出の力にいかに逆らっていくか・・、が今後のポイントになるのかな、と。

 このように、一事が万事、これまで「私と彼」の関係や力学の変化を読み取るために観客(というか私)が注目していたポイントが微妙にずらされてまいります。それぞれのシーンに二人が観客に見える形でいるか・いないか。シーンに掛ける時間の長さ、なども変化しておりまして。たとえば前者。彼が子どもを誘拐するシーンでは(まあこのシーンの「トルソー=子ども」見立てはその後変更になったそうなのであえて言及を避けるとして)、舞台上に「私」もたっています。これまでは「彼」の独断場であったこのシーンに、おそらく過去を回想している現在の「私」が存在する。さらに後者の例として、盗みを働いた二人が現場から逃げ去るシーン。これまでのスリルではほぼ逃げ切った場面から描かれていたこのシーンを、上下の移動をふくめて長く表現します。必死に逃げる「私」の健気さが表現できる面白いポイントだな、とおもっていたのですが、その後、なくなったらしいとの話を聞きました。なんとー。

 そして極め付けだと思ったのは、「Afraid(死にたくない)」から「99年」へと至る部分の変更。「Afraid」はこれまで私と彼が背中合わせ(あるいは横並び)で座り、拘置所の壁で隔てられていて、お互いが見えないという設定になっておりました。唯一二人を同時に見ることができる観客は、同時になされる演技から、二人の関係と心中を推測したわけですが。が、今回は「私」、箱の裏側に回ってしまって観客からも見えなくなるのです。わずかに、窓の向こうに私が見え隠れするのみ(席によってはそれに気づかない可能性すらある)。そう、ここで観客の視線は、「彼」役の俳優さんに集中します。彼が恐れや気弱さを吐露する芝居への注目度は否が応でも高まる。がんばれ「彼」。そして、ゆっくりと箱の裏から「私」が姿をあらわしたとき、その「私」は現在の私らしいのです。このシーン以降、仮釈放審問で話す「私」と、回想の中の「私」は混在し始めます。たぶん、この混在のさせかたに「私」役の俳優の戦略が光ることになるのでは、と思われます。たとえば「99年」の護送シーンで、彼と向き合わず彼の言葉を聞く「私」は現在の私、そして一瞬彼のまなざしを受けとめ、彼を見つめ返すのは回想の中の「私」では、などとそのシームレスな移行、今がどっちの「私」なのかは表情から読んでくれ!的状況にもだえることになるでしょう(なりました、私は)。新たな沼かな。

好みはわかれると思われるが

  今回の新演出版、同じ台本と思えないような違いが多く、これまでのスリルミーを身体化した多くの観客には、「い、違和感しかない・・」「もやる・・」との評を得ております。はたして今回の新演出は、黒歴史として葬られる運命にあるのか。今後さらなる発展をさせることができるのか。ちょっと楽しみなところです。

 とはいえ、私、今回の新演出版は嫌いではございません。もちろん、いつもの『スリルミー』で見たかったなー、という気持ちがないわけではございませんが。考えて見たら、10周年キャストは豪華華麗キャリアの俳優さんたちが務め、しかも複数ペアであらゆる「彼」と「私」の関係を試み、時には同じペアなのにマチネ・ソワレで解釈変えてきたりして鬼畜のバリエーション大辞典を作り上げたわけです。そんな祭りの後で、2年の空白はあれど、同じ演出がとられたら。これからキャリアを積み上げていく新メンバーが、先輩たちとは異なる解釈を作り上げなきゃならないとか、あまりに酷な要求ではございませぬか(まあ、脅威の能力でやっちゃうかもしれないとこが韓ミュなのですが)。だからこそ、新しい舞台美術と演出の中で、これまでの先輩たちが作り上げて来た「彼」や「私」から(ある程度)自由になって演技できるよう、あらたなキャラクターを作り上げやすいように、との親心的な部分が今回の新演出にはあるのかな?だからこその新キャストなのかな?と、超ポジティブにもとらえることもできますまいか。

 ま、来期からいつものバージョンにもどってるかもしれないけどね!

行こうよ白い森!―チケットはYES24で

 というわけで、いずれにせよ語りたくなること間違いなしの新スリル。未見のかたは是非ご覧ください。日本キャスト版ロスの方も、脚本は同じですので言語の壁を超えて十分楽しめると思います。航空代金が格安なこの時期に、ぜひぜひ韓国キャスト版スリルを堪能してくださいね!

 『スリルミー』はグローバルインターパークではなく、YES24の単独販売ですのでご注意を。以下にリンクをはっておきますね。キャストスケジュールもこちらでチェック可能です。

ticket.yes24.com

*1:今回新演出を担当されたのは、まさに『アランガ』の演出家であるイ・デウンさん

ミュージカル『影をなくした男(그림자를 판 사나이)』(2019-20年、韓国、初演)見て来たよ―映像を用いた舞台美術がスペクタクル

韓国の創作ミュージカル『影をなくした男(그림자를 판 사나이)』が2019年11月16日~2020年2月2日までホンイクデアートセンターにて上演中。アーデルベルト・フォン・シャミッソー作の「影をなくした男(ペーター・シュレミールの不思議な物語)」を原作として再創造されたミュージカル。ルネ・マグリットが描くシュルレアリズムの世界観や色合いを用いた舞台映像が美しく、影を人が演じ踊るアナログ演出とのハーモニーに魅了されること請け合い!なスペクタクル大作でございます。しょっぱなからキャッチ―な「私を呼んでいるよ( 날 부르네)」が流れ、脳内をぐるぐる回ること請け合いです。見て来たキャストはこちら!

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 ペーター・シュレミール:チャン・ジフ

レイマン/ベンデル・ホフマン:キム・チャノ

リナ・マイヤー:チョン・エジ

トーマス・ユン/ジャン・ペターソン:チ・ヘグン

基本は「影をなくした男」の物語(ネタバレあり)

本作品は伏線を張り巡らされた物語をドキドキしながら見守る系というよりは、ビジュアルと音楽、そして群舞とライティングの美しさを堪能するスペクタクル系の作品だといえましょう。ですので、ストーリーは基本的にシンプル。原作「影をなくした男」の中心的モチーフである、「悪魔とはしらずうっかり影を欲しがっている男と金のザクザク出る財布を交換しちゃってさあ大変」「影を返せと迫ったら、悪魔はかわりに魂をよこせといってきたよ、どうしよう」という展開を押さえておけば問題はないかと思われます。異なる点があるとすれば、原作ではペーターの心の支えである大男の召使ベンデルが、本作品では悪魔であるグレイマンと同一人物と設定されている点や、ペーターが恋に落ちる女性リナ(原作ではミーナ)が、もともとお金がなくて別れざるをえなかった大切な人であった、となり、裏切り者の召使ラスカルがパスカルと言う貴族に変更されている点でしょうか。また、物語の後半部分、原作では主人公が七里をゆく靴を手に入れ、旅に出、最後にミーナとベンデルに再会するのですが、その部分は大きく省略されています。主人公が悪魔の誘惑に打ち勝ち、孤独ながらも自由を手に入れて世界へと羽ばたいてゆくーー、というところでミュージカルは幕を閉じるのです。

「人と異なる」ことを受け入れる決意の物語

 さて本作品は、影をなくしたために周囲から排除され「人並み」でないことに苦しめられる主人公が、苦悩の末に、魂を売って「人並み」を手に入れるより魂をもったまま、孤独だが自由に生きることを選択する物語になっております。さらに言えば、主人公を「みんな」と同じ世界へつなぎとめる可能性のあった、愛する女性や忠実なしもべは主人公の前から消えてしまいます。ですからペーターは社会的排除されまくり、人間関係のネットワークからも切り離されまくりな主人公なのです。社会的なネットワークから漏れ落ちた人は、果たしてその中へ戻ることを何が何でも希求するべきなのだろうか?現代社会の問題でもあるような、そんな問いが作品に見え隠れいたします。実際、作家も少数者の生きずらい世の中で、いかに社会を作っていくのかを問いかけようとした、とおっしゃていますしね(プログラムブック作家インタビューより)。あくまで「問いかけ」な本作品。ペーターが最後に行った選択に、どれくらい共感できるか、その結論を受け入れられるか意見が分かれるところなのかもしれません。

ファンタジーを視覚化する

さて、本作品の魅力はなんといってもルネ・マグリットが描くシュルレアリズムの世界観を引用しつつ創られた舞台美術ではないでしょうか。影をあえて人が演じ、ペーターの持つ「美しい影」が観客にも視覚的に理解できるように演出されていたり。ぴかぴかの床に上部のライトが移り込み、迷宮や対称の世界が映し出されたり。ペーター達が活躍するのが、あくまでファンタジー、しかも童話のような不思議で奇妙な世界なのだということがビジュアルとして押し寄せてきます。ほんとにすごいこのセット。ペーターがすべてを失い、悪魔に魂を売り渡すしか方法はないのかと自問するとき、舞台上のセットが色をなくしていくのもニクイ。この世界は、彼の内面ともリンクした世界なのでしょう。だからこそ、最後にペーターが自由を選び、再び色をとりもどした世界の中を歩きだすシーンはすがすがしく、また七里を飛び越えてゆくような、軽やかささえも感じられるのではないでしょうか。

脳内ぐるぐるソング!「私を呼んでいるよ」チャン・ジフ

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もひとつ、グレイマンの悪魔ソングもどうぞ!「誰も逃れられない」キム・チャノ*1

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 原作の小説はこちら

影をなくした男 (岩波文庫)

影をなくした男 (岩波文庫)

 

*1:キム・チャノさんは人ならざるモノを演じさせたらピカイチな俳優さんだと思っております。ちなみに『デスノート』でレムを演じるパク・ヘナさんとはご夫婦です