韓国ミュージカル☆ライフ

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ミュージカル『影をなくした男(그림자를 판 사나이)』(2019-20年、韓国、初演)見て来たよ―映像を用いた舞台美術がスペクタクル

韓国の創作ミュージカル『影をなくした男(그림자를 판 사나이)』が2019年11月16日~2020年2月2日までホンイクデアートセンターにて上演中。アーデルベルト・フォン・シャミッソー作の「影をなくした男(ペーター・シュレミールの不思議な物語)」を原作として再創造されたミュージカル。ルネ・マグリットが描くシュルレアリズムの世界観や色合いを用いた舞台映像が美しく、影を人が演じ踊るアナログ演出とのハーモニーに魅了されること請け合い!なスペクタクル大作でございます。しょっぱなからキャッチ―な「私を呼んでいるよ( 날 부르네)」が流れ、脳内をぐるぐる回ること請け合いです。見て来たキャストはこちら!

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 ペーター・シュレミール:チャン・ジフ

レイマン/ベンデル・ホフマン:キム・チャノ

リナ・マイヤー:チョン・エジ

トーマス・ユン/ジャン・ペターソン:チ・ヘグン

基本は「影をなくした男」の物語(ネタバレあり)

本作品は伏線を張り巡らされた物語をドキドキしながら見守る系というよりは、ビジュアルと音楽、そして群舞とライティングの美しさを堪能するスペクタクル系の作品だといえましょう。ですので、ストーリーは基本的にシンプル。原作「影をなくした男」の中心的モチーフである、「悪魔とはしらずうっかり影を欲しがっている男と金のザクザク出る財布を交換しちゃってさあ大変」「影を返せと迫ったら、悪魔はかわりに魂をよこせといってきたよ、どうしよう」という展開を押さえておけば問題はないかと思われます。異なる点があるとすれば、原作ではペーターの心の支えである大男の召使ベンデルが、本作品では悪魔であるグレイマンと同一人物と設定されている点や、ペーターが恋に落ちる女性リナ(原作ではミーナ)が、もともとお金がなくて別れざるをえなかった大切な人であった、となり、裏切り者の召使ラスカルがパスカルと言う貴族に変更されている点でしょうか。また、物語の後半部分、原作では主人公が七里をゆく靴を手に入れ、旅に出、最後にミーナとベンデルに再会するのですが、その部分は大きく省略されています。主人公が悪魔の誘惑に打ち勝ち、孤独ながらも自由を手に入れて世界へと羽ばたいてゆくーー、というところでミュージカルは幕を閉じるのです。

「人と異なる」ことを受け入れる決意の物語

 さて本作品は、影をなくしたために周囲から排除され「人並み」でないことに苦しめられる主人公が、苦悩の末に、魂を売って「人並み」を手に入れるより魂をもったまま、孤独だが自由に生きることを選択する物語になっております。さらに言えば、主人公を「みんな」と同じ世界へつなぎとめる可能性のあった、愛する女性や忠実なしもべは主人公の前から消えてしまいます。ですからペーターは社会的排除されまくり、人間関係のネットワークからも切り離されまくりな主人公なのです。社会的なネットワークから漏れ落ちた人は、果たしてその中へ戻ることを何が何でも希求するべきなのだろうか?現代社会の問題でもあるような、そんな問いが作品に見え隠れいたします。実際、作家も少数者の生きずらい世の中で、いかに社会を作っていくのかを問いかけようとした、とおっしゃていますしね(プログラムブック作家インタビューより)。あくまで「問いかけ」な本作品。ペーターが最後に行った選択に、どれくらい共感できるか、その結論を受け入れられるか意見が分かれるところなのかもしれません。

ファンタジーを視覚化する

さて、本作品の魅力はなんといってもルネ・マグリットが描くシュルレアリズムの世界観を引用しつつ創られた舞台美術ではないでしょうか。影をあえて人が演じ、ペーターの持つ「美しい影」が観客にも視覚的に理解できるように演出されていたり。ぴかぴかの床に上部のライトが移り込み、迷宮や対称の世界が映し出されたり。ペーター達が活躍するのが、あくまでファンタジー、しかも童話のような不思議で奇妙な世界なのだということがビジュアルとして押し寄せてきます。ほんとにすごいこのセット。ペーターがすべてを失い、悪魔に魂を売り渡すしか方法はないのかと自問するとき、舞台上のセットが色をなくしていくのもニクイ。この世界は、彼の内面ともリンクした世界なのでしょう。だからこそ、最後にペーターが自由を選び、再び色をとりもどした世界の中を歩きだすシーンはすがすがしく、また七里を飛び越えてゆくような、軽やかささえも感じられるのではないでしょうか。

脳内ぐるぐるソング!「私を呼んでいるよ」チャン・ジフ

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もひとつ、グレイマンの悪魔ソングもどうぞ!「誰も逃れられない」キム・チャノ*1

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 原作の小説はこちら

影をなくした男 (岩波文庫)

影をなくした男 (岩波文庫)

 

*1:キム・チャノさんは人ならざるモノを演じさせたらピカイチな俳優さんだと思っております。ちなみに『デスノート』でレムを演じるパク・ヘナさんとはご夫婦です

ミュージカル『ファンレター』(2019-20年、韓国)見て来たよ―舞台サイドに字幕付き!韓ミュ初心者にもおすすめしたい

韓国の創作ミュージカル『ファンレター(팬레터)』、台湾公演も好評をもって終了した本作品が、三演となってソウルに帰ってまいりました。2019年11月7日~2020年2月2日まで、ドゥサンアートセンター・ヨンガンホールにて上演中。植民地期の京城を舞台とし、文学のミューズに魅せられた作家とそのファンの「手紙」を介して展開する物語。中毒者続出の大人気作。日本語(中国語)字幕付きで鑑賞できるので、韓国創作ミュージカルデビューに、年末年始一ついかがでしょうか。とりあえず見て来たキャストはこちら!

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キム・ヘジン:キム・ギョンス

チョン・セフン:ベク・ヒョンフン

ひかる:キム・ヒオラ

7人会メンバー:キム・ジフィ、イム・ビョル、イ・スンヒョン、アン・チャンヨン

おおよそのあらすじ(ネタバレしてます)

 時は1930年代。植民地下の朝鮮半島にあっても、都市部で消費文化が花開いた頃。拘置所にとらえられていたイ・ユンのもとを、チョ・セフンが訪れます。自殺したとされるキム・ヘジンの最後の手紙をみせてもらうためでした。それは、自分こそが見るべき手紙なのだとセフンは言います。なぜ、そう思うのか。ヘジン先生の死の経緯を、セフンが語りだすのですがーー。

 チョン・セフンは日本留学中にあこがれの小説家キム・ヘジンにファンレターを書きました。ただし自分のペンネーム「ひかる」名義で。その手紙を読んだヘジンは、自分の孤独を理解してくれる「ひかる」を女性だと思い込み、彼女に惹かれてゆきます。京城にもどったセフンは、文学を志す文士たちが集まる七人会を訪ね、そこであこがれのヘジン先生に出会います。喜び勇んで七人会の手伝いをはじめたセフンは、ヘジン先生が「ひかる」を愛していることを知り、驚くのでした(非実在青少年だよ!)。

 ヘジン先生がひかるを心のよりどころとする様子を目にし、誤解を解けず苦しむセフン。ついにセフンは、ひかるというキャラクターを完ぺきに作り上げ、ヘジンとやり取りを続けることを決意するのでした。ひかるとヘジン先生の手紙のやり取りをお手伝いする役を買ってでることで、ひかるの居場所を曖昧にすることにしたのです。アリバイ工作は完璧です!

 ひかるとヘジン先生のやり取りが進む中、ひかるに会わせまいと奮闘するセフンは、ヘジン先生の気をそらせるため、ひかるが書いたと偽って、自作の小説を送ります。その才能に感激した先生は、その小説を断りもなく文芸誌に掲載してしまうのでした。謎の天才女性小説家として話題になる「ひかる」。困ったセフンは、勝手に掲載をきめたヘジンに、怒ったひかるを装って、別れの手紙を渡すのでした。これでひかる問題は解決!・・と思いきや、失恋でぐだぐだになってしまうヘジン先生。結核を患っていることもあり、もういつ死んでもいい、小説など書けない、と投げやりになってしまう先生。みかねたセフンは、先生にひかるとの合作小説執筆を提案するのでした。さらに七人会は何者かの密告により、摘発され解散することに。結果として、セフンはヘジン先生を彼らから切り離すことに成功するのでした。

 ひかるも結核という設定にし、手紙を通じて合作を書くことにした二人(実際はセフンとヘジン)。セフンの用意した部屋で、ヘジン先生は死を目前にしつつ、何かにとりつかれたように執筆に没頭します。彼の体を気遣いつつもセフンは、どうせ結核で死ぬ運命ならば作品を残さなければ、とささやくひかるを止められません。死が迫るヘジン先生。セフンは我慢しきれず、ひかるは自分が作り出した人物にすぎないことをヘジンに告げてしまいます。その告白はヘジンに葛藤をもたらしました。しかしやがて、彼は文学の女神と共に死を迎えることを受け入れるのでした。

 再び、拘置所。ヘジン先生最後の手紙など実はありませんでした。しかし、小説を書けなくなっていたセフンは、もう一度文学の道をこころざすよう背中を押されます。もう一度小説を書いてみよう。そう決心したセフンのそばには、一度はヘジン先生と共に去った「ひかる」が、寄り添っているのでしたーー。で、幕。

 女神さまがみてる?

 このお話の最大の魅力は「ひかる」役の女優さんがヘジン先生を魅了していくところではないでしょうか。しかし「ひかる」は、セフンの内面にある彼の文学的才能の象徴でもある。つまりは、セフンがヘジン先生を篭絡していく様子が、「ひかる」というキャラクターによって可視化されるのが本作品なのでございます。このあたりが、萌え萌えを形作るポイントと言えましょう。さらにセフンは、自らの才能の化身である「ひかる」をコントロールしきれません。ひかるがぐいぐいヘジン先生に迫っていくのをおろおろ見守っているばかりなのです。しかし、おろおろして純情ぶりながらも、実はぐいぐい言ってるのもセフンなわけですからね!このセフンの二面性が、ヘジン先生との切なくも妖艶な関係性を生み出していきます。さらに言えば、セフン自身も、ひかるの魅力、破滅へと人を導くような力にあらがえません。ヘジンが文学に身を捧げ切り、こと切れるような「最後」を見てみたいという欲望さえも、どこかで抱いているのです。

 本作品は芸術の女神(ミューズ)でもある「ひかる」というキャラクターが、爆発的な推進力をもってお話を進めていくわけで。この人物造形がまさにキモになるといえましょう。ひかるは当初、あくまでセフンが設定して作り上げたキャラクターに過ぎないのですが、それが次第に物語の力の中で実体化し、作者(セフン)にもコントロールが効かなくなっていきます。この、作者にもコントロール不可能なキャラクターというイメージは、文学や物語の魔力を説明する時「キャラクターが勝手に動き出してしまって」などと語られるあの感覚に近い。だからこそ、でしょうか。物語中の役割に跡付けられ、物語の闇や妖艶な部分、時に人々を破滅へと導くものの象徴・ミューズとして「ひかる」は圧倒的な存在感と説得力を発揮するのです。

 こんな女神さまに見守られたら、えらいことになりそうですよ・・。

ミュージカル『黎明の瞳』(2019年、韓国、初演)見て来たよ(2)-もう少し「現代的」スパイスが必要?

来年(2020年1月23日~2月23日まで世宗文化会館)の再演を目前に控えたミュージカル『黎明の瞳』。初演時の感想の続きが発掘されましたので、忘れないうちに公開しておくことといたします。韓国の創作ミュージカル『黎明の瞳(여명의 눈동자)』初演は、2019年3月1日~4月14日、Dキューブアートセンターにて上演されました。日本植民地期から朝鮮戦争までの韓国近現代史をガッツリ盛り込んだ、ちょっと盛り込みすぎ?なミュージカル。すっかり存在を忘れていた感想の第二段をここに!

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(とりあえずこの、「鉄線越しの別れ」シーンは超名場面とされているので、舞台上に再現すべく、力はいってました)

苦悩は誰が背負うのか

 さて、ミュージカル『黎明の瞳』は真正面から真っ向勝負で近現代史を描くぜ!という意気込みに満ちておりました。1幕が慰安所での出来事と日本軍の横暴。2幕が済州島4・3事件を中心に扱う構成となっており、ドラマ版よりもこの二つの事件がフォーカスされています。ドラマでは、デチが慰安所から逃亡したあと、インパール作戦に参加するは、ジャングルで生蛇食べるは、八路軍に拾われるは、馬賊になるは、ソ連軍に連れてかれて朝鮮人民軍にはいるは、南側に舞い戻るは・・・という「えええーっ!そこでそう来るかっ」と盛りだくさんすぎるエピソードに、じっくり思考するというよりは、不謹慎と思いつつもおもわずツッコミをいれずにいられない。しかし、ミュージカルでは、ヨオクがスパイ容疑を掛けられて引き出された裁判の場を物語進行の軸として用いていることもあり、彼女の経験が物語の中心となっています。そのため、デチやハリムの激動話はあまり語られないのです(なので蛇は食べなかった)。

www.youtube.comMBCの「ハッピータイム」でドラマのあらすじが紹介されています。これを見るだけでおなか一杯に・・)

 そのため、韓国の近現代史の過酷さや苦悩はもっぱらヨオクの体験、つまり〈女性〉が背負ってきた苦悩として描かれることになります。もちろん、デチやハリムも苦悩の歌を歌い上げ、絶望を表現してはいるのですが。苦難の近現代史が〈女性の苦悩〉を軸に描かれることで、「守るべきでありながら、守れなかった弱きモノへの哀悼」というイメージがクローズアップされてしまい、なんだかマッチョなノスタルジーが鼻についてしまいました。4・3事件の描き方にしても、済州は、異邦人がひと時やってきてかき回して去っていく、そのあとは「他人事」な場所のようにも見えて。おそらく制作者が力をいれて描きたかったことはもっと別にあると思われるのですが、昨今の韓国ミュージカル・演劇界のラディカルぶりをみると、今回は設定段階でちょっと古臭いジェンダー観(韓国演劇界比ですが)を用いてしまったがゆえに、近現代史の語りにおける問題含みの部分までそのまま持ち越してしまったように感じました。むむ、歴史を描くって難しいな・・。

Dキューブの舞台上に観客席が出現

 今回のミュージカル『黎明の瞳』では、舞台上の両サイドに観客席が設置され、かなりの段数の客席がつまれていたのですが。演出家によると、開幕が迫る中で突如のひらめき(?)により、この舞台構成に切り替えたそうで。それにともない大幅な演出プランや照明プランの変更がおこなわれ(予算が切り詰められ、開幕が遅れ・・)たとのことでした。確かに、舞台上の席の観客からは俳優さんたちの演技が近くで見られてよかったと思われるのですが。が、通常座席の客席からは舞台がとても遠く感じられました。段差のある舞台を見上げる観客と、その舞台を見下ろす形で座る観客、視線の角度が異なる双方を意識した演出や演技というのはかなり難しいのでは・・と思わされたりもして。実際、前後左右にプラスして、上下方向をも考慮せねばならない舞台では、俳優さんたちも演技しにくそうに見えました。舞台奥のスクリーンは通常座席からはかなり遠く、ハズキルーペ必帯状態であったことは前回にも触れた通りでございます。演出に関して言うと、ストーリー同様、もう一歩何とかならんかったのか・・と、残念に思う部分が残りました。

アンサンブルのパワー

 と、ストーリーと演出にぐだぐだと文句をつけてまいりましたが。しかしこの作品がミュージカルとして魅力がなかったわけではありません。それはひとえにアンサンブルのパワーにあったかな、と思います(いや、メインキャラクターの皆さまも熱演で素敵でしたが)。「歴史」を表現する上で、主人公たちをとりまく「ひとびと」をいかに描いていくかが重要になると考えられたからでしょうか。アンサンブルが歌い、踊るシーンがかなり入っており「ドラマの盛りだくさん感がここに現れている・・」と圧を感じるほど。幕が開いたとたんに超ハイテンションの慟哭やシャウトの連続で、こ、このままずっと続くの?まじで?このまま・・?と手に汗を握ったのも事実。観劇後の殴り書きメモには「土田世紀の『編集王』か、尾崎南の『絶愛』かと思った・・」との謎の言葉を書き連ねていた自分を発見。でもなんか、そんな感じの作品なんですよ、これ。

 

※ミュージカル『黎明の瞳』(2019年、韓国、初演)見て来たよ(1)はこちら