ミュージカル「モーツァルト!」無意味な方向に予習!-マンガ「マドモアゼルモーツァルト」を読む
ミュージカル「モーツァルト!」韓国キャスト2016年版が幕を開けました。今回の演出は小池修一郎先生。6月10日から8月7日まで天下の世宗文化会館にて上演ということで。3000席のオオバコでございますよ。
モーツァルトのキャスティングをめぐっては、韓国ミュージカルファンたちの抗議行動が派手に展開され驚きの結末を迎えたりもして。舞台裏もドラマティックであったこの作品。さっそく見に行って・・、と言いたいところですが。猛烈に仕事中。どう考えても近日中の渡韓などムリでございます。というわけで、個人的に「モーツァルト!」の気分を盛り上げようフェアを開催することにいたしました。
(世宗文化会館のホームページに現れる「モーツァルト!」の告知に掲載中のウォルフガングはチョン・ドンソク王子。気分が盛り上がるなあ。気分だけが・・)
今回読んだのはこれ!「女性化」はマンガの王道なり
今回紹介するのは福山庸治先生の『マドモアゼル・モーツァルト』(Kindle版が出ております。全3巻)です。
1990年前後に『コミックモーニング』誌に連載された本作品。キンドル版でお手軽に読めるようになっておりました。「ベルサイユのばら」よろしく「女では有名な音楽家にはなれない」と考えた父レオポルドは、モーツァルトを男として育てます。そう、歴史上のあの人は実は女だった的創造力。日本のマンガをはじめとする娯楽作品が大得意とする女性化モノでございます。坂本龍馬も沖田総司もモーツァルトもみな女性!というわけ。女のままコンスタンツェと結婚もしちゃいます。「私は夫が欲しいのよ!」と叫ぶコンスタンツェが登場いたします。ダンスがしたいのではなくてね。
ミュージカル版もあった
実はこの「マドモアゼルモーツァルト」、1991年に音楽座によってミュージカルにもなっておりました。音楽は小室哲哉。時代を感じる90年代なセレクトでございます。
いやいやしかし、90年代の遺物としてこの作品をとらえるのは十分ではないでしょう。2005年にやはり音楽座で再演もされているのです。「21C、マドモアゼルモーツァルト」と改題、バージョンアップしての上演です。印象としては、「モーツァルト!」のアマデが大きくなって活躍するパラレルワールドであるかのごとし。これはこれで面白そうです。
女になることで、父との関係が変化する
さて、ミュージカル「モーツァルト!」では、ウォルフガングと父レオポルドの葛藤が一大見せ所、それらが楽曲に魅力を添えるのです。過剰ともいえる父の束縛。彼を自由にさせようとしない家族の圧力が、父を通してウォルフガングにのしかかります。父はアマデを必要としているだけなのか、ウォルフガングとしての自分は一体なんなのか、ウォルフガングは問い続けることになる。ミュージカル「モーツァルト」は、まさに父と息子の物語。
これがモーツァルトは女性だった設定になると、もちろん二人の関係も父と娘(しかも、才能あふれる娘)に、男親と女の子供の間の葛藤にすり替わる。そこには、「女性であること」によって受けるはずの差別を父が防いでくれていたという設定が入り込んでまいります。女性であるモーツァルトは、父の言いつけだから男のふりをしなければならないと思っていた。父の死によって「ウォルフガングの持ち主はこの世にいなくなった」とよろこび、女性の恰好で街に飛び出し自由を謳歌するのですが。それは、父が自分になぜ「男であること」を強いていたのかを理解していなかったからの態度でもある。しかし、街でサリエリと出会い彼と音楽談義をしている途中、「女であるがゆえ」にその音楽性を認められない瞬間に出会います。そしてモーツァルトは、女として生きるよりも、心行くまで作曲をして、人々にそれを発表していけることのほうが、ずっと大事なことだったのだと悟ります(このあたり、90年代初頭の空気を感じるといえばそうかもしれないですね)。この時、父は抑圧の対象ではなく、彼の世界を守っていた存在として理解されるのです。
明るさとやるせなさと
「マドモアゼルモーツァルト」は、父と娘の葛藤が解消され、ウォルフガングが自分で運命を選び取るという感覚が描かれています。なので最後もなんだか明るい(実際とは異なる人生が、オチとして描かれているのもその理由でしょうが。これはネタバレなので伏せておきましょう)。
ミュージカル版「モーツァルト!」の、なんだかやるせない最後とは根本的に異なっているわけです。だからこそ、だからこそでございます。マドモアゼルなモーツァルトを堪能すればするほど、ますます父と息子の物語も見たくなる。苦悩するドンソク王子がみたいのよ!気分だけが、ますます盛り上がるのでございました。