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オケピのリアリティとは。

オケピ

先日韓国ミュージカル版「オケピ!」を見てきました。開幕前のアナウンスが楽しいLGアートホールです。コンダクターがオ・マンソクさんの回。

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おまけに「オケピ」ティッシュもらいました。

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さてさて、三谷芝居は呼吸が命、韓国語に翻訳することでセリフのタイミングがかわっちゃっても大丈夫かな?とおもっておりましたが。全然心配なかった。 どっかんどっかんウケていました。

 

私の隣の席に座ってらした2人組が、なんと1幕で帰ってしまわれたのですが、「オケピ!」をご存じならばこの1幕で帰っちゃう、という行為の持つ意味がお分かりかと。

 

というわけで、「だいたいミュージカルなんてみんな1幕しかみないんだよ」みたいなセリフのところで、近所の席の人たちとともに一層爆笑したのでありました。あの二人は演出の一部かい!ほんとに帰っちゃったよ、みたいな。

 

さて、この韓国版「オケピ!」一部で否定的な批評が出ております。

 

たとえば『The Musical』の2016年2月号の「期待に応えられないバックステージツアー『オケピ!』」(ジョン・スヨン漢陽大学兼任教授)では、オケピ!は「ミュージカルについてのミュージカル」であるというメタ構造をもっているのに、それが意識できていない。ミュージカルを支える裏方の人たちのリアリティがない。こうした脚本の弱さを、演出も補えていない。というようなことが書かれていました。

 

この指摘が面白いなと思うのは、評者は、この作品がメタ構造をもっていることを作者や演出家が意識できていないと思っている点です。たぶん、三谷さんも、演出のファン・ジョンミンさんもそこは十分わかっている思うのですが。では、何が評者に「わかってないよ」感をもたらしているのでしょう。私の勝手な解釈ですが、それは、何をリアリティととらえるかの違いなのではないでしょうか。

 

批評記事を読むと、「オケピ」はミュージカルやそれを必死で支えている人たちを「おちょくっている」ように感じてしまうみたいですね。裏方の人たちには、ミュージカル制作の苦労や苦悩それらを乗り越えていくような情熱といった「リアリティ」があるはずなのに、それが書けてないというわけです。

 

確かに、このミュージカルのキャラクターは、文学的に悩んだりする感じではない。人間的苦悩やその乗り越えを描くことをリアリティと考えるならば、確かにそこに描かれているキャラクター達の苦悩はなんか薄っぺらく感じるかもしれません。誰にも名前を覚えてもらえない苦悩とか、どのタイミングでシンバルをならせばいいのかわからない苦悩、とかしか書かれてないし。

 

しかし、この作品のリアリティは、キャラクター個々人の生き方やそのセリフにあるのではなく、キャラクター同士のやり取りとそのズレにあるのではないでしょうか。勘違いと勝手な解釈がほかの関係を巻き込みつつ、全体を変な方向に引っ張って行ってしまうような。

 

「人間」をリアリティをこめて書くのではなく「人間関係」をリアルに書くことを追求している、というか。二者関係にかぎらず、関係がどんどん組み合わさって、個人の力ではもうどうしようもなくなってしまうあの感じ。私たちは日々、個々にモノを考えてこうなればいいなこう伝わればいいな、とおもって一生懸命コミュニケーションしているのに、なぜか全体としては全然意図通りにならなくて、むしろまったく別の部分で評価されたり、怒られたりしてびっくりしたりするわけです。あの感じが、とってもリアルに描かれている。

 

オケピの楽曲には、それぞれが勝手に「いま、自分が考えていること」を歌いながら、いつの間にか一つの曲へとまとまっていってしまう曲がありますが、まさにここにオケピ!のリアリティがあるのでは、と思うわけです。

 

そしてそこに感動するのは、個々人がバラバラでありつつ、その力が完全に及ばない何かが世の中には存在しているけど、でも時にハーモニーになっちゃう瞬間があること、そんな日常のリアリティと、いまこの場のリアリティがこの曲を通してつながるからではないでしょうか。「オケピ」はこうやって、客席の人たちをも巻き込んだミュージカルの世界を描いているのだよ、と思います。

 

横に座っていたカップルは、「それがオケピ~」という楽曲の後、猛烈に拍手し続けておりました。一緒に、負けじと拍手しておきました。

 

・・・でも、「ショウ・マスト・ゴー・オン~幕を下ろすな~」のほうが面白い気もいたします。あえてどっちか、っていわれたら。