韓国ミュージカル☆ライフ

韓国ミュージカルを楽しみつくすブログ

ミュージカル「マディソン郡の橋」-二幕最初のシーンを見るために、双眼鏡スタンバイオーケー?

最近大学路系ミュージカルネタが続きましたが。久々にブロードウェイからやってきたライセンス大劇場系ミュージカルネタとまいりましょう。ミュージカル「マディソン郡の橋」が、パクウンテ&オクチュヒョンという黄金キャスト引っ提げて、2017年4月15日から2017年6月18日まで、忠武アートホール大劇場にて上演中でございます。近年(ていつから)ブロードウェイミュージカルは、ジュークボックスと映画のミュージカル化が増えているという話もあるようですが。韓国にもその波がやってきた。夏には「ベンハー」も控え、映画ファンをミュージカル界へと導こうという意図が見えたりも致します。ともあれ、見て来たキャストはこちら!

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ロバート:パク・ウンテ

フランチェスカオク・チュヒョン

バド:パク・ソヌ(ダブルキャスト

ちなみに、おおよそのあらすじをチェックしてから見に行きたいなと思われる方はマディソン郡の橋 (ミュージカル) - Wikipediaの解説を読まれるのがベストかと存じますが。しかし、歌を堪能することこそが韓国ミュージカルの醍醐味、と思われる向きには、とびこみ観劇でまったく問題ないとおもわれます。基本的に何がおこっているか、見てればわかるよ的親切設計!

 田舎の息苦しさがこれでもかと表現される

 田舎暮らし、丁寧な暮らしなどが再評価されている昨今の日本。しかしこのミュージカルが描く田舎は「息苦しさ」と「退屈さ」の権化。かつてみんなこれが嫌で都会にでたいと望んだ、そんな時代があったことを思い出させます。そう、舞台となっている時代は1960年代のアメリカ(の田舎)、第二次世界大戦の記憶がまだ生々しいその時代。ヒロインのフランチェスカは戦争花嫁としてアメリカ兵の夫についてアメリカへと渡ったイタリア人。帰ることのできないふるさとへの望郷の念と田舎の息苦しさ、専業主婦的業務(日常の無限の繰り返し)への虚無感などを抱いた人物です。その想いは、スナフキンのように自由に各地を旅する写真家のロバートとの出会いによって吹き出し、あふれ、やがて非日常を求める恋愛感情へと高まっていく。

典型的といえば典型的な悩み。ありがちな恋愛動機といえばそうなのでしょうが。このミュージカルにおいて表現される田舎の「息苦しさ」がなかなか秀逸で、フランチェスカの抑圧された日々にもなんだか共感してしまう。たとえば、この作品では場面転換や小道具異動の際、無言の「村人たち」が家の中にがすがすと入り込み、しずしずとキャビネットやテーブル、二人のベッドシーンに用いられるベッドにいたるまでを運搬するのです。また、フランチェスカの家のセットは、外との境界を明確にしていません。家の外に広がるひまわり畑と家の中をつないでいるのは扉のセットだけ。扉の横に壁らしきものは作られていない。つまり、つねに部屋の中から外が(あるいは外から中が)透けて見える。これはセットとしての制約でもあるのでしょうが、プライバシーがあるようではない「田舎」の空気をよく表しているようにも思えるのです。

そしてなんといっても胸筋

このように、田舎の空気をうまくすくい出している作品として、ここまで「お上品(?)」な感想をかいてまいりましたが。が。が!もっと力強く主張すべきことは別にある、というのも事実。そう、パク・ウンテロバートの魅力について語らずにはおられますまい。これがまた、パク・ウンテ俳優にも「妖精」の称号をあたえたくなるほどのみずみずしさ。その好青年っぷりと、シャツのボタンあき具合にもやもやすること間違いなし。1幕から水浴び(?)シーンあり。2幕冒頭、上半身景気よく露出シーンありというサービスショット(ではないが)がてんこ盛り。フランチェスカでなくても、メロメロになるでしょう、これ。甘い声、しかも美声で歌われた日には相当ヤバイ。しかもそれを受け取るのは安定のオク・チュヒョン。もう文句はございません!

ファントムとはまた異なる、ロバートの「切ない思い」の表現力に、ウンテさん、うまい!とうならされることも間違いなしなのです。

ミュージカル「スリル・ミー」(韓国キャスト、2017年10周年版)見て来たよ-ようこそ妖精の国へ、カンピルソク・イユル編(1)

10周年記念の豪華キャストで繰り広げられているミュージカル「スリル・ミー」ソウル公演がのこり一カ月を切りました。2017年2月14 から 2017年5月28日まで、ベガムアートホールにて上演中。いやだー、おわらないでー、とすでに叫んでおられる方々も少なくありますまい。ここからチケット入手はますます困難になるとおもわれますが、とりあえずこのペアの感想を言わずにおれますまい!

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私:カン・ピルソク

彼:イ・ユル

ピアノ:オ・ソンミン

清らかな乙女のような

後日書きたいと思うのですが、チョン・ウクジン、チョン・ドンファペアがフェロモン垂れ流し、エロス追求方向へと進んでいるとすれば、それを極限まで隠し、男の友情を描く(ように見えてしまいさえする)のがウン・ム(チェ・ジェウン、キム・ムヨル)ペアだったとしましょう(勝手に)。この二つの極をおいてほかのペアを線上に配置していくとそのペアの特色が見えてくる。そのようにわたくしは理解しておりました。

が!さすが10周年。韓国「スリル・ミー」の可能性は、たんなる直線状の点に回収できるようなものではなかったのでございます。妖精(カン・ピルソクさんの愛称・・というか)投入によって「スリル・ミー」はなんと「百合」でもありうることが証明された・・・気がする(気のせい?ええ、たぶん病。生暖かく放置ください)。

カンピルソク・イユル、通称ヨ・ユル(ヨチョンニム:妖精様×イユル)ペア。「百合」などと申しましたがもちろんカックイイ男子二人に演じられ、惚れぼれすることは間違いない。しかしなんといいましょうか。純潔(じゃないけど)や儚さ、脆さ。にもかかわらずそこに覆いかぶさる残酷さのようなものが、このペア、というか妖精に導かれたこの世界に充満しておりまして。それはなんだか「少女性」と表現するのがもっとも適切なような気がしてくる残劇加減なのでございます。なのであえて「百合」といってみました、キャッチ―に(ごめんなさい)。

イ・ユルさんの「彼」は、盗んできたカバンの内容物チェックの際にも、ぽいぽいグッズを放り投げたりしない。きっちり並べ立てて「ほしいものがあったらいってね」という礼儀正しいふるまいなのです。ワルぶって火を持てあそぶさまも控えめで、たばこは吸わない健康優良児(?)。「私」を突き飛ばした後、ちょっと「あ、こわれちゃったらどうしよう。大丈夫かな、オロオロ」と不安になったりするためらいっぷりが見られます。犯罪を犯して一瞬は興奮するも、その興奮の陰にはつねに不安そうなそぶりも見えたりして。「彼」新機軸!弱さをぎりぎりのところで隠そうとする不安定な「少女性」がそこにすけてみえるではありませんか。あと一歩押したら崩れそうな「彼」。ぐあー、意外にこれはヤラレル!

この「彼」は、妖精様の、やはりもろく崩れ落ちそうな「私」と呼応しながら、あらたな「スリル・ミー」の地平を観客に突き付けるのですよー。

(続く・・)

 

ミュージカル「スモーク」(2017年版)感想(3)-演劇的面白さがつまった小劇場ミュージカルの極み!

2017年3月18日から5月28日までユニプレックス2館にて上演中の韓国オリジナル創作ミュージカル「スモーク」。みなさま御覧になられましたでしょうか??なになに、まだ見てない?それはもったいなさすぎる!ーーと叫ばずにはいられない、素敵な作品です。

このミュージカル中にでてくる「ホン」という女性(俳優さんが演じる役どころ)ですが、李箱の恋人(?)だった錦紅(クモン)が原型のような名前がつけられております。しかし、このお話で面白かったのは、この役どころが単に「錦紅(クモン)」あるいはイ・サンにとっての恋人そのままではないところです。というわけで、なかなか書き終わらない感想(というか作品紹介)の続きとまいりましょう!

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(リアル李箱(1910-1937)、Wikiより引用)

あらすじの後半(ネタバレしてます)

自分を殺せという女(ホン)に銃を向け、引き金を引くチョ。しかし女は死ななかった。驚く女にチョは自分にも銃を向け、引き金を引いてみせる。やはりチョもまた、死ぬことはなかった。そう、ここは「死」のない鏡の中の世界、イ・サンの精神世界の一部だったのだのです(ここら辺が謎解きになっているので、ジャンルとしてはミステリなのかなと)。

「チョ」はイ・サンが望んでいた(鏡にうつる)強い自己の象徴。彼と入れ替わることを望み、ここに引きこもる「ヘ」こそがイ・サン本人であることが暗示されます。そして彼らが向かおうとしている「海」こそが、現実からの逃避先である「死」を意味していたのです。そしてホンもやはり、イ・サンが鏡の中に見いだす存在であり、彼が出会ってきた「女」の姿をしてはいますが、その実はイ・サンが幼少のころから常にそばに置き、付き合ってきた苦悩や絶望の象徴であったのです(と、私は解釈しましたが、ここら辺大きく見る人の解釈に左右されるのではないかと)。イ・サンが死へと向かうためには、この鏡の世界に絶望や苦悩を連れ込むことが必要だった、というわけなのでしょうか。しかし皮肉なことに、絶望や苦悩こそが彼をこの世に引き留めてもいる。「ヘ」におまえこそが銃を持ち、引き金を引きくべきなのだと迫るチョ。ヘは銃を手に「海」を想いますが・・。

彼は結局、天に向けて引き金を引いたのでした。壊れる鏡の世界。暗転後、再び最初のシーンに戻ります。

最初のシーンで囚人服の男、イ・サンは「チョ」でしたが、ここでは「ヘ」に代わっています。彼の詩が読み上げられ(四角形の内部の四角形内部の四角形の内部の四角形・・何回繰り返すのが正解だったか・・)、この中に暗号を隠しているのではないかと問い詰められる。イ・サンは詩に意味などなく、イメージがあるだけなのだと繰り返すのですが、理解されません。結局病気を理由に釈放され、死にたいと繰り返しながら道に倒れこむイ・サン。

その時、一筋の光が頭上にある机の上にあたり、原稿が輝きます。光に吸い寄せられ、そこにおかれた銃とペンを手にするイ・サン。そして彼は、銃を置き、ペンをとって何かを書き留め始めるのでした。そばには、チョとホンも現れ、ともに創作について語りだします。海にはもう行かない。誰にも理解されなくてもいい。スモークのような幻想でいい。飛び立とうー。創作の希望に満ちた三人のハーモニーが余韻をのこして、幕。

ーーーというようなストーリーです(かなり記憶があいまいな部分もあり、私の解釈が混ざった部分もありますのでご注意ください)。

鏡の世界は1つではない

このミュージカルはいくらでも深読みできそう・・な沼感が漂う危険な作品です。たとえば、「ヘ」としてのイ・サンが書きつけているのは『終生記』と思われるのですが、この物語は入れ子になりかつ循環構造をもっていているとされる複雑怪奇なつくりで有名。確かに「もう理解されなくてもいいじゃん!」みたいなことをホンが言いつつ書かれる作品だけある。また、劇中で鏡は無限に相互を映しあいながら多数の世界を形作るとされてもいました。

つまり、イ・サンの世界観は、現実の世界と鏡の世界(虚構)が対立的に存在するというよりは、いくつもの現実が重層し、入れ子になるようなもの。とすると、はたして最後にイ・サンとして物語を書き始めた「ヘ」こそが、鏡の外の現実のイ・サンであって、チョやホンはその影でしかないといえるのか?という疑問が生じもします。いまいち記憶があいまいで確信がもてないのですが、最後のシーンで「ヘ」は、物語を「左手」でかいていたような気がする(いや、ホントに記憶違いのような気もするのですが)。もし、そうならば。イ・サンの詩「鏡」において、「鏡の中の私は左利きだ。私の握手を受けられぬ---握手を知らない左利きの男である。」という一説がありますから、「左利き」なのは鏡の中の男なのです。創作に取り組む「ヘ」は、鏡の中の男でもありうる。こんな含みもこめられていたのではないか・・。考え始めると、どんどん見たくなるミュージカル「スモーク」。や、やばい・・。

 

・・・まだ続くかも!