韓国ミュージカル☆ライフ

韓国ミュージカルを楽しみつくすブログ

ミュージカル「スリル・ミー」(韓国キャスト、2017年10周年版)見て来たよ-ようこそ妖精の国へ、カンピルソク・イユル編(1)

10周年記念の豪華キャストで繰り広げられているミュージカル「スリル・ミー」ソウル公演がのこり一カ月を切りました。2017年2月14 から 2017年5月28日まで、ベガムアートホールにて上演中。いやだー、おわらないでー、とすでに叫んでおられる方々も少なくありますまい。ここからチケット入手はますます困難になるとおもわれますが、とりあえずこのペアの感想を言わずにおれますまい!

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私:カン・ピルソク

彼:イ・ユル

ピアノ:オ・ソンミン

清らかな乙女のような

後日書きたいと思うのですが、チョン・ウクジン、チョン・ドンファペアがフェロモン垂れ流し、エロス追求方向へと進んでいるとすれば、それを極限まで隠し、男の友情を描く(ように見えてしまいさえする)のがウン・ム(チェ・ジェウン、キム・ムヨル)ペアだったとしましょう(勝手に)。この二つの極をおいてほかのペアを線上に配置していくとそのペアの特色が見えてくる。そのようにわたくしは理解しておりました。

が!さすが10周年。韓国「スリル・ミー」の可能性は、たんなる直線状の点に回収できるようなものではなかったのでございます。妖精(カン・ピルソクさんの愛称・・というか)投入によって「スリル・ミー」はなんと「百合」でもありうることが証明された・・・気がする(気のせい?ええ、たぶん病。生暖かく放置ください)。

カンピルソク・イユル、通称ヨ・ユル(ヨチョンニム:妖精様×イユル)ペア。「百合」などと申しましたがもちろんカックイイ男子二人に演じられ、惚れぼれすることは間違いない。しかしなんといいましょうか。純潔(じゃないけど)や儚さ、脆さ。にもかかわらずそこに覆いかぶさる残酷さのようなものが、このペア、というか妖精に導かれたこの世界に充満しておりまして。それはなんだか「少女性」と表現するのがもっとも適切なような気がしてくる残劇加減なのでございます。なのであえて「百合」といってみました、キャッチ―に(ごめんなさい)。

イ・ユルさんの「彼」は、盗んできたカバンの内容物チェックの際にも、ぽいぽいグッズを放り投げたりしない。きっちり並べ立てて「ほしいものがあったらいってね」という礼儀正しいふるまいなのです。ワルぶって火を持てあそぶさまも控えめで、たばこは吸わない健康優良児(?)。「私」を突き飛ばした後、ちょっと「あ、こわれちゃったらどうしよう。大丈夫かな、オロオロ」と不安になったりするためらいっぷりが見られます。犯罪を犯して一瞬は興奮するも、その興奮の陰にはつねに不安そうなそぶりも見えたりして。「彼」新機軸!弱さをぎりぎりのところで隠そうとする不安定な「少女性」がそこにすけてみえるではありませんか。あと一歩押したら崩れそうな「彼」。ぐあー、意外にこれはヤラレル!

この「彼」は、妖精様の、やはりもろく崩れ落ちそうな「私」と呼応しながら、あらたな「スリル・ミー」の地平を観客に突き付けるのですよー。

(続く・・)

 

ミュージカル「スモーク」(2017年版)感想(3)-演劇的面白さがつまった小劇場ミュージカルの極み!

2017年3月18日から5月28日までユニプレックス2館にて上演中の韓国オリジナル創作ミュージカル「スモーク」。みなさま御覧になられましたでしょうか??なになに、まだ見てない?それはもったいなさすぎる!ーーと叫ばずにはいられない、素敵な作品です。

このミュージカル中にでてくる「ホン」という女性(俳優さんが演じる役どころ)ですが、李箱の恋人(?)だった錦紅(クモン)が原型のような名前がつけられております。しかし、このお話で面白かったのは、この役どころが単に「錦紅(クモン)」あるいはイ・サンにとっての恋人そのままではないところです。というわけで、なかなか書き終わらない感想(というか作品紹介)の続きとまいりましょう!

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(リアル李箱(1910-1937)、Wikiより引用)

あらすじの後半(ネタバレしてます)

自分を殺せという女(ホン)に銃を向け、引き金を引くチョ。しかし女は死ななかった。驚く女にチョは自分にも銃を向け、引き金を引いてみせる。やはりチョもまた、死ぬことはなかった。そう、ここは「死」のない鏡の中の世界、イ・サンの精神世界の一部だったのだのです(ここら辺が謎解きになっているので、ジャンルとしてはミステリなのかなと)。

「チョ」はイ・サンが望んでいた(鏡にうつる)強い自己の象徴。彼と入れ替わることを望み、ここに引きこもる「ヘ」こそがイ・サン本人であることが暗示されます。そして彼らが向かおうとしている「海」こそが、現実からの逃避先である「死」を意味していたのです。そしてホンもやはり、イ・サンが鏡の中に見いだす存在であり、彼が出会ってきた「女」の姿をしてはいますが、その実はイ・サンが幼少のころから常にそばに置き、付き合ってきた苦悩や絶望の象徴であったのです(と、私は解釈しましたが、ここら辺大きく見る人の解釈に左右されるのではないかと)。イ・サンが死へと向かうためには、この鏡の世界に絶望や苦悩を連れ込むことが必要だった、というわけなのでしょうか。しかし皮肉なことに、絶望や苦悩こそが彼をこの世に引き留めてもいる。「ヘ」におまえこそが銃を持ち、引き金を引きくべきなのだと迫るチョ。ヘは銃を手に「海」を想いますが・・。

彼は結局、天に向けて引き金を引いたのでした。壊れる鏡の世界。暗転後、再び最初のシーンに戻ります。

最初のシーンで囚人服の男、イ・サンは「チョ」でしたが、ここでは「ヘ」に代わっています。彼の詩が読み上げられ(四角形の内部の四角形内部の四角形の内部の四角形・・何回繰り返すのが正解だったか・・)、この中に暗号を隠しているのではないかと問い詰められる。イ・サンは詩に意味などなく、イメージがあるだけなのだと繰り返すのですが、理解されません。結局病気を理由に釈放され、死にたいと繰り返しながら道に倒れこむイ・サン。

その時、一筋の光が頭上にある机の上にあたり、原稿が輝きます。光に吸い寄せられ、そこにおかれた銃とペンを手にするイ・サン。そして彼は、銃を置き、ペンをとって何かを書き留め始めるのでした。そばには、チョとホンも現れ、ともに創作について語りだします。海にはもう行かない。誰にも理解されなくてもいい。スモークのような幻想でいい。飛び立とうー。創作の希望に満ちた三人のハーモニーが余韻をのこして、幕。

ーーーというようなストーリーです(かなり記憶があいまいな部分もあり、私の解釈が混ざった部分もありますのでご注意ください)。

鏡の世界は1つではない

このミュージカルはいくらでも深読みできそう・・な沼感が漂う危険な作品です。たとえば、「ヘ」としてのイ・サンが書きつけているのは『終生記』と思われるのですが、この物語は入れ子になりかつ循環構造をもっていているとされる複雑怪奇なつくりで有名。確かに「もう理解されなくてもいいじゃん!」みたいなことをホンが言いつつ書かれる作品だけある。また、劇中で鏡は無限に相互を映しあいながら多数の世界を形作るとされてもいました。

つまり、イ・サンの世界観は、現実の世界と鏡の世界(虚構)が対立的に存在するというよりは、いくつもの現実が重層し、入れ子になるようなもの。とすると、はたして最後にイ・サンとして物語を書き始めた「ヘ」こそが、鏡の外の現実のイ・サンであって、チョやホンはその影でしかないといえるのか?という疑問が生じもします。いまいち記憶があいまいで確信がもてないのですが、最後のシーンで「ヘ」は、物語を「左手」でかいていたような気がする(いや、ホントに記憶違いのような気もするのですが)。もし、そうならば。イ・サンの詩「鏡」において、「鏡の中の私は左利きだ。私の握手を受けられぬ---握手を知らない左利きの男である。」という一説がありますから、「左利き」なのは鏡の中の男なのです。創作に取り組む「ヘ」は、鏡の中の男でもありうる。こんな含みもこめられていたのではないか・・。考え始めると、どんどん見たくなるミュージカル「スモーク」。や、やばい・・。

 

・・・まだ続くかも!

ミュージカル「スモーク」(2017年版)感想(2)-演劇的面白さがつまった小劇場ミュージカルの極み!

ゴールデンウィークももうすぐ終わり。しかしもしかするとGW後のソウル観劇旅行を計画されている方もおられるやもしれません。そんな方々におすすめしたいのが、2017年3月18日から5月28日までユニプレックス2館にて上演中の韓国オリジナル創作ミュージカル「スモーク」。ということで、感想(にまでたどり着いていない作品紹介の)続きとまいりましょー。

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(見にくいですが、キャストボードの一部拡大)

「スモーク」のキャストボード横には李箱の詩「烏瞰図第15号」の一部が引用されています。詩心なく直訳すると以下のような文章。ミュージカル「スモーク」は、ここに描かれた、「鏡の世界」で物語が繰り広げられるのです。

私は鏡のない室内にいる

鏡の中の私はやはり外出中だ

私は今鏡の中のわたしを恐れ震えている

鏡の中の私はどこかに行き

私をどうにかしようと企んでいるところだろうか

あらすじ紹介(前半部分)

ミュージカル「スモーク」の物語は、囚人服を着せられた男にスポットライトがあたるシーンから始まります。今回キム・ジェボムさんが最初のシーンに登場したため、なんだか「スリル・ミー」感が半端なかったりもして。脳内「スリル・ミー」汚染度の深刻さに気付かされもしました。・・ともあれ。

彼は病を患っているらしい。そして彼の耳には数々の彼の作品を非難する声が聞こえているようだ。彼は何かを決心して、部屋を飛び出す。

舞台はかわって、男二人が女をさらってきたらしいシーンが展開される。最初のシーンに登場した男は(今回はキム・ジェボムさんが演じる)「チョ」と呼ばれ、もう一人(ユン・ソホさん)は「ヘ」と呼ばれている。彼らは「海」へ行くために女をさらい、人質として身代金を請求しようとしているのだった。女は三越百貨店の娘であるとされているのだが。はたして彼らは何者で、なぜ海へ行こうとしているのか?ミステリー仕立てに物語は始まります。

チョは「彼らがいる部屋」身代金を要求するために外へ出かけるさい、ヘに向かって女と話しをしてはならないと言い残します。しかし、チョが出かけると、心優しいヘは、苦しそうにせきこむ女を見かね、彼女のさるぐつわを解いてしまう。そこに吐血の跡を認めたヘは、彼女がチョ同様、肺の病に脅かされているらしいことに恐れを抱きます。彼女の体を案じるヘ。言われるがままに目隠しを、そしてついには手の縄をほどいてしまうのでした。

ホンと名乗るその女はヘを見て、自分のことがわからないのかと尋ねます。しかしヘに覚えはありません。なぜ自分を誘拐したのだと問われると、それはチョと自分が「海」へ行くためだと答えます。「海」にいけば自分は好きなだけ絵を描き、チョは詩を書くことができる。海は河と異なり凍ることがない。雄大な海。二人は海について語り合い、その場を夢見てヘとホンは楽しくダンスをおどりはじめます。心の通じ合う二人。そこへチョが戻ってきます。女と話すなと言ったにもかかわらず、女と心通じ合わせている様子に憤るチョ。その場を取り繕おうと女はコーヒーを淹れふるまいます。それを飲んでねむってしまう「へ」。睡眠薬が入っていた様子。

眠ってしまったヘを挟んで向き合うチョとホン。ホンー女はチョのことも知っている様子です。彼女は三越の娘ではありませんでした。女は、チョはどうしても自分と一緒にいたいのでしょう、と言います。チョは、自分たちが「海」へ行くため、彼女が必要なのだと認めます。それはヘもわかっているはずだと。はたして「ホン」とは何者なのか。なぜ彼らは「海」にいくために彼女を必要とするのか。謎は深まるばかり。

やがてーー、目を覚ましたヘは、次第に記憶を取り戻し始めます。貧しい両親に里子に出され、周囲を気にし、絵をやめ勉強することにした子供時代。文章を書き始めた記憶。そのときの苦しみや苦痛、そして絶望。それとの付き合い方さえも。その後、発表した作品が人々に非難され続け、死を選ぼうとしたとき、「女」が常に文章を書かなくても生きていけるのではないか、あるいはもっと人々にわかるように書けばよいではないかと自分を引き留めてきたことも。この「女」-ホンは、記憶の中で思慕し続けた母のようでもあり、彼を愛し、現実の生活を支える女のようでもあり、そうした彼にとっての「母性」すべてを象徴しているようでもあります。

記憶を取り戻し混乱するヘ。彼が再び死を選ぼうとしたそのとき「女」はやはり彼を必死でひき止め、いっそ自分を殺せと叫ぶのです。チョはそんな「女」に銃を向け、無常に引き金をひくのでしたーー。しかし。

 

・・・超長いので続きます!